teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助 youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]


大庭賢二君逝去

 投稿者:横浜通信部M生  投稿日:2020年 2月 9日(日)18時10分0秒
  個人情報秘匿?の時代だけれど、もう半世紀も前のことだし、やがて歴史の彼方へ雲散霧消?していくことなので簡単に記しておこう。このHPの「全学新=ゼンガクシン(全日本学生新聞連盟)」コーナーのトップにある写真のほぼ中央に写っている大庭賢二君の訃報がご家族から届いた。2月4日に急逝、75歳だった。写真は1965年春、岡山大学で開かれた全学新の第26回全国委員会終了後の記念写真(ぼくも片隅に写っている)で、大庭君は東京農大新聞の編集長をつとめた後、65~66年にかけて「都学新(東京都学生新聞連盟)」ついで全学新の全執(中執)として活躍し、卒業後は「全学連」ならぬ「全酪連=ゼンラクレン(全国酪農業協同組合連合)」の乳業分野のキャリアとして活躍、東京工場長や関連会社の役員を歴任した。新潟はじめ全国各地の牛乳工場への転勤族で、卒業後はあまり会う機会はなかったけれど、傾きかけていた全学新で同じ東京の執行委員として対〇〇のオルグや多数派工作、さらに新規加盟のオルグ、大会向けの合宿など行動を共にすることが多かった近しい盟友だっただけに、東京への出張の折など連絡が入り、細く長いつきあいが続いた。近年は体調を崩し酸素吸入の身になったと何年か前の年賀状の添え書きにあったけれど、まさかこんなに早く訃報を聞くとは! 合掌。  
 

「金井敏博さんとのお別れ会」のご案内

 投稿者:管理人  投稿日:2020年 1月18日(土)11時03分45秒
編集済
  「金井敏博さんとのお別れ会」について、関係者の方からつぎのような案内がありましたのでご連絡いたします。

------------------------------------------

大寒の折、ご健勝のことと存じますc
突然のお知らせになりますが、昨年12月20日、私たちの共通の友人である金井敏博さんが急逝されました。享年78歳でした。
お元気でご活躍中でしたので、残されたご遺族の悲しみは想像に余りありますし、私たちも晴天の霹靂にうたれた思いです。ご葬儀は12月27日家族葬にて挙行されましたc
残された私たちとしては故人の人となりを思い起こし、多面的な営為を少しでも共有し引き継いでいくことを誓いたいと思います。つきましては金井敏博さんとのお別れ会を開催することとしました。おいでくだいますようご案内申し上げます。

お別れ会 発起人
人江勝通(ワークショップ.ピリオド。こうほくの会)

お別れ会呼びかけ人
小林富夫(ワークショップ.ピリオド代表、篠原城と緑を守る会)
前田浩志(同人誌『置文21』編集長)
村上芳信(月刊「親子きょういく」発行責任者 ひこばえ親子きょういく塾代表)
茂呂秀宏(こうほくの会『こうほく市民ジャーナル』編集委員会)
山田平保(同上)
和歌森民男(中学校歴史教科書に対するもうひとつの指導書研究会)
矢下育子(同上)
朝倉賢司(横浜学校労働者組合)
(順不同)


日時 2020年2月16日(日)15時15分~16時45分
会場 横浜市大豆戸地域ケアプラザ多目的ホール
住所 横浜市港北区大豆戸町316-1(菊名駅西口歩9分)
会費 無料 平服でおいでください。
ワークショップ.ビリオド制作の「金井さんの思い出」の映像を見て、金井さんを偲ぶ。
直接会場においでください。

問合せ先
小林富夫 電話 080‐9455‐0777 メール:koba@ynet.jp
入江勝通 電話 070‐5075‐6977 メ一ル:irie@kogakusha.jp

----------------------------

金井敏博さんとのお別れ会後の懇談会 ご案内

お別れ会閉会後、菊名西日の別会場で、軽飲食付きの懇談会の場を持ちます。参加される方は、2月10日までに参加ご連絡をお願いします。
日時 2月16日(日)17時30分~20時
場所 浜清(ハマセイ) 菊名駅西日1分 菊名西口商店街内
JR菊名駅ホーム下のガードをくぐり、八幡神社へ向かう坂道に入つてすぐ右へ。
「おがさや」を右に見て商店街に入る。約50メートル右側にあり。
会費 3000円 30人の会場です。

申込先
茂呂秀宏 電話 090-7844-3087
矢下育子 電話 090-7426-6287

------------------------------

下記リンクは、2017年2月19日、横浜で開かれた教科書批判の会で熱弁をふるう金井さんの画像です。(管理人撮影)

http://tue.news.coocan.jp/P2190927f.jpg

 

穂積さんと「神式」の葬儀

 投稿者:横浜通信部M生  投稿日:2020年 1月 9日(木)23時43分26秒
  穂積さん(1921.12~2014.11)が東京帝国大学法学部長の祖父・陳重(のぶしげ)、同じく法学部長の父・重遠(しげとう)に連なる学問の家系の御曹司ということは在学中から知っていたのですが、今回検索して穂積家が宇和島藩に「思想としての国学」を導入した家系ということを初めて知りました。なおまた重遠は最高裁判事を経て後に東宮大夫兼東宮侍従長となったそうですので、国学~神道~天皇家との流れで神式の葬儀? それとも磊落(らいらく)な人柄で多くの学生から慕われた穂積さんは、天理教あるいは金光教など神道系の新宗教の信仰を持っていたのでしょうか。今となってはどうでもいいようなことですが、ともかくその夜ぼくは「お焼香」ではなく「玉串奉奠」(たまぐしほうてん)を初体験しました。(なおつづく)
 

金井さんと葬儀

 投稿者:横浜通信部M生  投稿日:2020年 1月 9日(木)19時12分31秒
  金井さんと言えば、数年前、ぼくが(からくも)出た西洋史教室の穂積重行名誉教授のご葬儀の折にお会いしました。穂積さんは文学部教授会において筑波移転反対の中心的役割を果たした教官の一人で、教育大を経て大東文化大学に転じ後に学長になったのですが、ぼくらが学窓を去って幾星霜。史学科OBのぼくはともかく「なぜ金井さんが?」と問うと、「生協運動を通じて大変世話になったので」と。
徒然なるままに古いメモにあたってみると、穂積さんの葬儀(通夜)は2014年11月10日、東京・目黒の碑文谷会館で行われたのですが、なんと「神式」だったのですね。我ら日本人は仏式・神式・キリスト教式・無宗教など冠婚葬祭なんでもござれですが、結婚式はともかく葬儀で神式に立ち会ったのはこの時が初めてです。なぜ穂積家は神式で?(以下、つづく?)
 

金井敏博氏の葬儀

 投稿者:管理人  投稿日:2020年 1月 4日(土)10時35分24秒
  関係者からの連絡によると、12月20に亡くなられた金井敏博氏の葬儀は、12月27日に純家族葬として行われたとのことです。これとは別に友人たちによる偲ぶ会が2月16日、横浜市内で開催される予定とのことです。  

曰く不可解

 投稿者:横浜通信部M生  投稿日:2019年12月29日(日)17時01分40秒
  何を隠そう、金井淑子さんはぼくと同期。親しくはなかったけれど、小さな大学で文学部は1学年200名と少なく、しかも彼女は哲学科、ぼくは史学科と地味な専攻だったので、同じ講義を受講することも多く顔見知りだったのですね。それに、たしか教育実習の時、当時の三品さんがぼくの授業を見学に来た。(記憶があいまい)それにしても「家族生活は厄介で重かった」とは! ぼくの周囲でも離婚やら別居やら非婚、再婚、再々婚など様々な男女関係が存在するけれど、ジェンダー理論の第一人者が「厄介で重かった」というからには相当厄介で重かった? それとも夫の妻に対する、あるいは妻の夫に対する「要求水準」が高すぎたのだろうか。名も無く貧しく(それなりに)美しく‥‥平凡を絵に描いたような夫婦生活歴まもなく半世紀(実際はキンコンまで2年足りない)のわが身には曰く不可解、で。  

金井さんの奥さんだった人

 投稿者:管理人  投稿日:2019年12月27日(金)15時07分29秒
編集済
  金井さんは、大学卒業後、同じ倫理学専攻の2年後輩であった三品淑子さんと結婚したが、その後離婚されている。三品さんは入籍により金井姓になったが、それは現在もそのまま使っている。ジェンダー理論の研究者として有名だが、一橋大学社会学研究科「ジェンダー社会科学研究センター」のサイトに、彼女のインタビュー動画が掲載されている。その中で「結婚はしたものの、家族生活は厄介で重かった」と話している。

http://gender.soc.hit-u.ac.jp/sentanken14/inheritingGS_kanai.html

 

イタカン

 投稿者:管理人  投稿日:2019年12月23日(月)17時30分16秒
  金井さんが大学生協連の理事を務めていた頃、下級学年の生協活動家は、金井さんを「イタカン」と呼んでいた。なぜ「イタカン」なのか聞いてみたところ、「板橋の官僚だからだ」などと言っていた。当時、大学生協連の本部事務所は板橋区熊野町にあった。金井さんは、大学での用事が終わると、池袋駅西口から、商店街の裏道を通り、徒歩で本部事務所に通っていた。昼の仕事と夜の仕事の二重生活で、結構忙しそうに見えた。  

教育環境整備ゼミナール

 投稿者:管理人  投稿日:2019年12月23日(月)11時22分43秒
編集済
  金井さんと言えば、1965年3月に法政大学を会場とし、大学生協連の主催で開かれた全国学生教育環境整備ゼミナールで、全体会の司会をしていた姿が思い起こされる。その会場で当時京都大学生協の理事で、後に赤軍派をたちあげる塩見孝也が突然立ち上がり、「金井!金井!」と連呼して発言を要求し、指名されると「60年安保闘争以来、初めて統一派の諸君と同席できる機会を設けてもらい、ありがとう」などと発言し、場内の爆笑をさそった。その統一派の人たちは不快そうな顔をしていた。その塩見孝也も一昨年亡くなっている。ほぼ同年代。今となってはなつかしい想い出。
この教育環境整備ゼミナールは、当サイトの「年表」には記載されていなかったので、昨日追加記入しておいた。
 

金井敏博氏ご逝去

 投稿者:管理人  投稿日:2019年12月21日(土)12時09分47秒
編集済
  新聞会員ではありませんが、教育大関係者にはご存知の方が多いと思われるので、連絡いたします。
大学生協運動の活動家であり、大学生協連の全国理事を務めたこともある金井敏博氏(1961年倫理入学、武蔵丘高卒)が12月20日夜、心筋梗塞のため急逝されました。78歳でした。救急車で病院まで搬送されたものの、血管が破裂して亡くなられたとのことです。謹んでご冥福をお祈り致します。
 

小澤勝洋氏ご逝去

 投稿者:管理人  投稿日:2019年12月 7日(土)17時28分43秒
編集済
  農学部学生自治会の活動家であった小澤勝洋氏(1963年農業化学入学)が本年1月12日に亡くなられていたことが、本日管理人宛てに配達されてきた奥様からの喪中はがきにて判明致しました。小澤氏はもともと館山市のご出身ですが、大学卒業後は千葉県内で高校の教員、校長を務め、特に永年にわたり卓球部の顧問を担当し、平成22年度には千葉県体育協会から体育功労者として表彰されていました。謹んでご冥福をお祈り致します。

http://www.bonichi.com/News/item.htm?iid=4919

 

茨城県警備業連盟初代理事長に井沢卓司君

 投稿者:管理人  投稿日:2019年12月 4日(水)17時48分45秒
編集済
  少し古いニュースですが、今年5月15日、茨城県警備業連盟の設立総会が水戸市内のホテルで開かれ、初代理事長に水戸警備保障の井沢卓司社長が選ばれたとのことです。なお、井沢君は当OB会のメンバーです(1967年法政)。

https://job-gear.net/mitokeibi/

 

OB会員用メーリング・リストの変更について

 投稿者:管理人  投稿日:2019年11月28日(木)21時44分7秒
編集済
  従来使用してきたOB会員用メーリング・リストGMOが12月2日正午に廃止となるため、Allserverのメーリング・リストに切り換えを致します。
参加ご希望の方は、管理人までメールでご連絡ください。送られてきたメールアドレスに宛て、MLへの招待メールを送ります。
(追記)2020年1月16日現在、この切り換えに伴い、2人のメンバーが退会しましたが、2人の新しいメンバーが加入したため、参加者数に変化はありません。
 

文自闘前田君心臓手術

 投稿者:管理人  投稿日:2019年10月 6日(日)10時41分41秒
編集済
  知人からの連絡によると、筑波闘争時の文学部自治会闘争委員会副委員長の前田浩志君は、「8月に心臓手術をし、また9月に入院した。歩行困難も強まり、透析にはタクシーで通っている」とのこと。
その後、前田君本人に電話した人の話によると、「冠状動脈のバイパス手術と心臓弁の手術で8時間を要したとのこと。ずいぶんと大変な手術だが、前田さんの声には張りもあり、電話の様子では元気だった」とのことです。ご快癒を祈ります。

http://tue.news.coocan.jp/tsukuba/main.htm#a

 

簡単な自己紹介

 投稿者:石井 尚史  投稿日:2019年10月 1日(火)09時44分31秒
   1975年衛生局に入都しました。その後人材不足もあったのでしょう、30ぐらいから40ぐらいまで都職労・都庁職・都労連本部の執行委員していました。
 山内さんは名前も出身も存じていましたが話をした記憶はありません。副区長の件は区長の前川さんが元福祉局長の関係もあるかもしれません。
 学校の卒業生は理学部で海老原さんと浦校時代からの同級生だった柿沼さんと話をしたことがあります。
 組合関係では農学部の小林さんが4代前の自治労都庁職の委員長をしていました。また76年
農学部を卒業した佐藤が旅券課にいました。彼の話では寮の中核にオルグされたといってましたし、倫理の同級生が寮で協会派にオルグされたと言っていたような気がします。寮にはまだなにかが残っていたのかもしれません。










 

Re:追加の質問

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 9月29日(日)01時44分41秒
編集済
  > ページ8にある2012.8.2の小畑精武さんは江戸川区労協のオルグのかたでしょうか。

そうです。小畑君は西洋史、私は日本史で、史学科の同期です。1964年後期文学部自治会では一緒に常任委員をやっていました。
私の最初の就職先は江戸川区にありましたが、組合運動に関与していて、たまたま遭遇し、一緒に活動していたことがあります。しかし、私の方は江戸川区は6年で離れてしまったため、その後の関係は薄くなりました。

> 都の教育長の比留間は都の同期で結構仲良くしていました

ということは、都の職員をされていたのでしょうか。だとするともしかすると山内隆夫君もご存知かもしれませんね。学年は違いますが、彼は東洋史で、同じ史学科です。今は練馬区の副区長をしています。彼は前橋市、私は館林市で、同じ群馬県の出身です。
都庁と言えば、当会OGの岩沢敦子さんは、中央都税事務所に勤務していましたが、かなり前、亡くなったという噂が流れてきました。亡くなった日時や死因は不明です。会内ではトンコちゃんと呼ばれて親しまれていたのですが。
また、1991年に若くして亡くなられた当会のメンバー大津俊彦君の奥さんである佳子さんも都庁民生局勤務でした。
なお、比留間英人さんは私と同じ学科専攻ですが、在学期間がずれているため、まったく面識はありません。
 

追加の質問

 投稿者:石井 尚史  投稿日:2019年 9月29日(日)00時04分57秒
   すいません。書き込みのあとつらつらと開けていたら、ページ8にある2012.8.2の小畑精武さんは江戸川区労協のオルグのかたでしょうか。もしそうなら組合のある会でお会いしたかたなので、
 同じページの都の教育長の比留間は都の同期で結構仲良くしていました、
 

http://かきこみの

 

ありがとうございました

 投稿者:石井 尚史  投稿日:2019年 9月28日(土)22時23分42秒
   丁寧な解明ありがとうございました。説明を受け50年近く前に戻ることができたことがいくつかありました。
 私の印象はこの大学は田舎の優等生の集まりで、都会の劣等生は居場所がないという感想でした。こいつらが将来教師になるとしたら日本の未来は悲観的なものだと思ったものです。教師志望で入学しましたがそれがなくなりました。
 しかし入試中止の前と後では随分学生のありかたが違ったものだったですね。
 まず西田さんのことをみなさん知っていることに驚きました。新聞会が革マルになったのは入学直前のことだったのですね。内ゲバの報道された新聞の彼女の写真は私のイメージと違いました。彼女はもっと都会的で魅力的感じで記憶しています。
 自治会の状況ですが自治会の主流は民青でしたし革マルが修正案を出す程度。しかしそれさえも2年の間に革マルは中核や解放派の内ゲバで教育大のメンバーは要員として学内に顔をださなくなりました。民青は新日和見主義の影響か勢いをいっそうなくしていったような気がします。
 それは政治だけではな女子のスカートがミニやジーパンからミディアムにかわりました。








 
 

Re:移転反対闘争の最後

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 9月27日(金)16時25分7秒
編集済
  閲覧ありがとうございます。

> 入学した時は闘争は草木もはえない状態でした。

おっしゃるとおり、71年4月の時点では、闘争は完全に終息しており、主だった活動家たちもほとんど卒業または退学して大学から姿を消していました。

> 新聞部は革マルのイメージで内ゲバで唯一の死亡した女性と言われている川崎市職の西田さんがやっていたような記憶があります

そうです。筑波闘争の終息とともに、ほとんど会員のいなくなってしまった新聞会に1971年3月、西田さんが革マル派の男子学生数名を引き連れて入会してきたため、革マル派の新聞のようになってしまったのです。しかし、西田さんが卒業すると同時に、新聞も廃刊になってしまっているので、西田さんが一人で運営しているような状態だったのでしょう。付いてきた他のメンバーはあまりやる気があるようには見えませんでした。最終号となってしまった1973年4月10日付第551号にも「新会員募集中」の広告が、むなしく掲載されています。また最終号のトップ記事を筑波大学開校の記事で締めくくってくれ、それなりのケジメを付けてくれたことに感謝しています。しかし、そのわずか2年後に内ゲバで殺害されるとは思ってもいませんでした。残念です。
また、過去の新聞もきちんと保管してくれていたので、幸い「縮刷版」を刊行することが出来たのです。当サイトのトップページを飾っている「1965年新聞会山中湖合宿記念写真」も、管理人が保管していたものではなく、西田さんたちが消えた後の新聞会室に保管されていたものです。「スライドショー」で使用されている他の写真も同様です。
つまり、教育大学新聞会終末期の2年間は革マル派の西田さんが中心になって運営していましたが、教育大学新聞会の過去の遺産はすべて以前からのメンバーによって回収されています。


http://tue.news.coocan.jp/nishida.htm

 

移転反対闘争の最後

 投稿者:石井 尚史  投稿日:2019年 9月27日(金)11時29分51秒
   突然、失礼します。46年倫理に入学し50年に卒業した者です。文学部の最後の自治会大会に出席したものです。哲学の小川先生は私の結婚式の仲人でした。
 入学した時は闘争は草木もはえない状態でした。
 新聞部は革マルのイメージで内ゲバで唯一の死亡した女性と言われている川崎市職の西田さんがやっていたような記憶があります


 

レンタル掲示板
/26