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11度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年11月15日(金)07時28分52秒
  「今日の1枚からつまみ食い」、今回のテーマは「イス ジャケ」です。


「イス ジャケ」作品の枚目は、Marcus Roberts の Deep In The Shed、1989年8月9日の録音です。
このジャケ、しかしすごい部屋です。豪邸という言葉がピッタリです。外国の方に自分はマンションに住んでますと言ってはダメだ!、との話をよく聞きますが、マンションとはこのような部屋がある豪邸をさすのですからね。マーカスさんが寄りかかっているピアノと、そこにあるピアノ椅子の存在感は、実に薄いものです。
さて本作品ですが、2008年12月10日に「今日の1枚」で取り上げました。その際には私は、この作品を最大限に貶す感想を書いています。「新主流派の香り薄めた上に、ディキシーの味わいを隠し味にした内容。実に分かりにくい表現ですが、内容は掴みどころがない」「CD時代の作品にしては45分と短い時間で終わったことにが、唯一の幸い」とのものです。
今回のつまみ食いでは、どのような感想になるのでしょうか。
 

18度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年11月14日(木)07時42分28秒
  さてコールさんの「イス ジャケ」作品。
ピアニストとしての実力を備えて活躍していた中で、歌手としても活動を始め、1944年には大ヒットを飛ばしたコールさん。ジャズ界だけではなくポピュラー界でも大人気となったコールさん。そんな方に「飲みながら軽くBGMに流すのにピッタリ」との16年前の私の感想は、自分の感性の愚かさを示すようなもので、恥ずかしい限りです。
「You're Lookin' At Me」はボビー・トゥループ作の曲で、優しく語りかける暖かいコールさんの歌声を楽しめる曲です。ジャケの笑顔のように、本当に優しい人なんだろうなと思う歌声です。またウィリー・スミスが椅子に置いてあるアルト・サックスで、コールさんと同様の暖かい響きを聴かせています。
こんな風に楽しめる曲が並んでいる本作品、ようやく私も楽しめるようになりました。
 

13度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年11月13日(水)07時30分38秒
  その前に、この作品が録音された1956年8月15日(水)の新聞を見てみましょう。
先ずはトップ記事。
日経「消費者のための産業政策、通産省で検討、商品検査会社作る、安くて長い月賦制確立」
この通産省検討の商品検査会社については、ネットから情報を得られませんでした。また「長い月賦制確立」との動きとの関連かは定かではありませんが、1961年に「割賦販売法」が制定されました。「月賦の丸井」、私が月賦と聞いて思い出すものです。

読売「日本の立場は微妙、消極的な調停役、米と密接な連絡とり、スエズ会談」
スエズ運河を巡るは、エジプト、イスラエル、イギリス、そしてフランスが対立していました。重光外相はこの日にモスクワを離れロンドンに出発し、第一次スエズ運河国際会議に参加しました。各国のこのような外交努力はあったのですが、各国に政治的思惑があり、この年の10月に第二次中東戦争が勃発しました。

朝日「補助金を二点に限る、小中学校の建設、二部授業解消と学校統合のため、来年度から」
私の時代にはプレハブ校舎が当たり前に、学校のグランドにありました。またかつて私が駐在していた香港とマレーシアのペナンでは、小中学校での二部授業、午前組と午後組との二編成が今でも行われています。この記事から思い出したことでした。




ではこの8月15日の日経新聞から少しばかり紹介します。
・4面に「黒人大いに活躍、民主党大会、すべり出し まず順調」との見出し記事があります。米民主党は大衆の政党だとアピールするため、大会の表舞台に黒人の方々が派手に動いていることを報じています。今では新聞テレビなどで「黒人」とストレートに表現することはありません。日本で「ちびくろさんぼ」が絶版に追い込まれた時期が最初との私の記憶ですが、調べてみますとそれは1988年のことでした。
・2面下に「香水線香 花之花」の広告があり、水谷八重子が顔写真付きでコメントを出しています。孔官堂(官は画数が多い感じ、広告では潰れて判読できません)という1883年創業の会社が今でもあり、線香の製造販売を行っています。ただし「花之花」との商品は製造していません。線香大手の日本香堂では、「花之花」という商品を取り扱っています。
私は「香水線香」との表現には「香」の二重表現で違和感を感じますが、今でも使われているそうです。
・TV欄 日テレ 12:15の「漫才」には、和子〆子が出演しています。東和子・西〆子という女流漫才師コンビは戦後すぐに人気を集め、1964年にはコンビ解消、しかし1983年には再結成したとのことです。
ちなみにこの放送が、日テレのこの日の最初の放送番組です。
 

11度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年11月12日(火)07時08分2秒
  「今日の1枚からつまみ食い」、今回のテーマは「イス ジャケ」です。


「イス ジャケ」作品の21枚目は、Nat King Cole の After Midnight、1956年8月15日の録音です。
イスはピアノ椅子ではなく。その左奥に4脚ある背もたれ椅子です。何しろピアノ椅子は、ナット・キング・コールの体で見えないのです。
イス資料を見ますとこの背もたれ椅子は、LAにあるスカンク・ワールドというお店が扱う、イームズ作のContract SwivelChair に似ています。ブラピが白色を4脚購入したイスとのことです。ジャケでは高価なイスになんと、ハリー・エディソンのトランペット、ウィリー・スミスのアルト・サックス、スタッフ・スミスのヴァイオリン、そしてファン・ティゾールのバルブ・トロンボーンを座らせています。
こんな贅沢なジャケを「今日の1枚」で取り上げたのは、2003年9月16日のことでした。その際には、「いやー、エンターテイメント。飲みながら軽くBGMに流すのにピッタリ」とお気軽感想を書きました。今日のつまみ食いでは、高級椅子に敬意を評して、16年前より真面目に感想を書きます。
 

11度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年11月11日(月)07時36分21秒
  19580110-03
Nakatini Serenade (Calvin Massey)
(11分3秒)


【この曲、この演奏】
カルヴィン・マッセイ作のこの曲は、リー・モーガンがBN4034で「Nakatini Suite」という曲名で取り上げております。コルトレーンのこの曲の演奏記録は、本セッションだけです。
ネットで調べますと「Nakatini」はタガログ語で、「これだ」との意味のようです。ただしセレナーデは「恋人や女性を称えるために演奏される楽曲、あるいはそのような情景」なので、この二つを合わせると意味不明になります。「君が全てだ」との意味合いなのでしょうか。
さて演奏ですが、アフロ・ラテンの印象に残るテーマの後に、辛口豪快スウィングのコルトレーンのソロが続きます。恋人を称えるどころか、恋人に本音をぶつけていくようなコルトレーンのソロを聞くと、彼の人柄を感じる思いです。



【エピソード、ネイマ、1954年】
ネイマは1926年1月2日生まれなので、コルトレーンより8ヶ月と少しの年上となる。日本流に言えば、同じ年生まれだが学年は一つ上である。またネイマは未婚だったが、5歳の娘アントニア(トニ、サイーダとも呼ばれた)がいた。また実家で兄夫婦と一緒に暮らしていた。
ネイマは子供の頃からいろんな音楽を聴いていた。ブルースに感じ入るのと同じようにバルトークを聴いていた。またネイマは街にマイルスやガレスピーが街に来ると、必ず会場に駆けつけていた。
ネイマはコルトレーンについて「無造作な喋り方をする人だった」と述べている。ネイマが人造宝石を埋め込んだベルトをしていると、「そのベルトは良くない、君には似合わない。そんな安っぽいガラスが付いていない、無地のベルトを買うべきだと思うね」と言うコルトレーンだった。
ネイマは学生時代のオーケストラの演奏会で、演奏後に指揮者が曲の解説を始めたのを見て、不思議に思った。音楽は解説によって理解するものではなく、ただ聴くだけで十分素晴らしいものだった。
「(音楽は)好きか嫌いか、それだけよ」とネイマがコルトレーンに言うと、「じゃあ、僕の演奏を一度聴いてくれ」とコルトレーンはネイマに頼んだ。その翌月にコルトレーンが歌伴で演奏するのをネイマが聴きに行った。その時の感想は「まるで重い毛布のような雲が、地球の上にすっぽりと覆いかぶさっている」とのものだった。ネイマにとってコルトレーンの演奏は、異様な体験の一つとなった。(資料01)
なお資料06には、1954年にコルトレーンが歌伴を行なった記録は、見当たらない。
 

10度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年11月10日(日)07時41分42秒
  19580110-02
The Believer (McCoy Tyner)
(13分48秒)


【この曲、この演奏】
コルトレーンとはフィラデルフィア仲間のマッコイ・タイナーが作った曲です。コルトレーンのこの曲の演奏記録は本セッションだけであり(資料06)、また作者自身も本セッションだけの演奏記録(資料08)です。
さてコルトレーンとマッコイの演奏記録上の接点は、1957年にコルトレーンがリーダーとしてのフィラデルフィアでのライブがありますが、それ以降ですと1960年のコルトレーン・バンドでまで待つことになります。
資料09に気になる記述があります。この次の本セッション3曲目はカルヴィン・マッセイ作の曲ですが、「1956年頃、コルトレーンとマッコイはカルビン・マッセイのバンドに在籍していたことを考えると興味深い」との記述です。勿論、コルトレーンとマッセイは1940年代後半に出会い、生涯の友となっていきますし、資料06によれば1947年には2回の共演記録があります。またこの3人はフィラデルフィア仲間です。しかしながら、資料06を含めて他の資料をみても、資料09にあるような、「コルトレーンとマッコイがマッセイのバンドに在籍」を裏付けるものが見当たりません。
疑問点の詮索はここまでとしてこの演奏ですが、このブルース・ワルツを快適に晴れやかにコルトレーンは吹いています。ガーランドのソロはご愛嬌として受け取り、どのような拍子であれコルトレーンは威風のある演奏に感心します。



【エピソード、ネイマとの出会い】
コルトレーンはネイマと1955年10月3日に結婚します、資料01に二人の出会いについてのネイマの話が載っています。
私とジョン・コルトレーンの出会いは1954年6月、スティーヴ・デイヴィスの家でした。ジョンはとてもいい人ですが、ちょっと田舎臭いところがあるように思えました。彼はアンダーシャツ無しで袖の短いシャツを着ていました。靴下ははいていませんでした。スティーヴの奥さんが彼をからかっていました。「アンダーシャツと靴下を一体どこに脱ぎ忘れてきたの」私は彼を紹介された時、名前がとても奇妙に思えたので思わずこういったのを覚えています。「コルトレーン? 珍しい名前ね、綴りはどう書くの?」 ナイーマ・コルトレーン
 

13度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年11月 9日(土)07時36分3秒
  19580110-01
Lush Life (Billy Strayhorn)
(13分54秒)


【この曲、この演奏】
この名バラッドについて、資料11に次のように書かれている。
ビリー・ストレイホーンの「ラッシュ・ライフ」がモダン・ジャズのミュージシャンにとりあげられることが少ないのは、アドリブの素材として容易に変形しにくいためであろう。クロマチックのそのコード進行は研究を要し、また曲自体が、コーラスに入る前にヴァースを演奏しなければならない構成になっている。
さて演奏ですが、コルトレーンの代名詞の一つであるバラッド演奏は、ここにきて風格すら出てきています。マイルスの元を離れて1年弱の活動で、その形が完成されてきています。じっくりとテーマを愛しての演奏、そして力の入れ方を少し変えてのアドリブへの突入していく姿は素敵なものです。またガーランドとのコンビでの成熟も加わっているのでしょう。ドナルド・バードはコルトレーンの演奏に妙に影響を受けたのか、戸惑いを見せる演奏でソロに入っていきますが、後半にはなかなかの演奏です。
再び資料11ですが、次のようにあります。
コルトレーンと一団は、このバラードを延々、情感を込めて演じている。この演奏と、コルトレーンが後に歌手のジョニー・ハートマンと共演したヴァージョンが一助になって、この曲は次の世代に生き延びることとなった。
この曲はコルトレーンの二つが圧倒的な出来と言えるのでしょう。資料14には、この曲の代表演奏として、コルトレーン以外に10曲掲載していますが、それらはコルトレーン以降のもの。資料11にある通り、コルトレーンの演奏によってジャズ界での名曲になっていった曲です。




【エピソード、このセッション】
コルトレーンが、ガーランドとドナルドバードとのクインテットで録音に臨むのは、これで3回目である。最初は前年の11月15日であり、2度目は12月13日のことであり、プレスティッジへのセッションだ。この二日間に収録された15曲は、ガーランドのリーダー作として発売された。
そして3度目となる本セッションでは5曲が録音され、コルトレーンのリーダー作として3作に分かれて発売された。それらはLP7188のラッシュ・ライフ、LP7292のビリーバー、そしてLP7378のザ・ラスト・トレーンである。
なおガーランドとバードとのクインテットで、この年の5月にコルトレーンのリーダー・セッションを行なっている。それがコルトレーンとバードの最後の共演記録になる。(資料06)
 

14度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年11月 8日(金)07時23分3秒
  19580103-05
It Might As Well Be Spring (Rodgers - Hammerstein)
(11分34秒)


【この曲、この演奏】
この曲はオスカー・ハーマンスタイン二世とリチャード・ロジャーズのコンビが、珍しく映画のために書いた曲で、1945年のミュージカル映画「ステート・フェア」で使われた曲です。そしてこの曲はアカデミー賞の主題歌賞となり、このコンビの代表曲となりました。(資料14)
この素敵な曲のコルトレーンの演奏記録は本セッションだけです。(資料06)
この曲では主役のアモンズとコルトレーンの、2管での演奏となっています。全員参加で3曲披露した後にリチャードソンとアダムスを入れた3管で「That's All」を演奏した後の、本セッション5曲目であります。
さて演奏ですが、「まるで心が春のように浮き立っている」との歌詞の通りに、アモンズのテナーによる気持ちと体が温めるバラッド演奏です。ほぼ全編がアモンズの魅力で包まれた演奏ですが、コルトレーンのアルトにも出番があり、出来栄え見事な演奏です。資料09には、「原曲のイメージを崩さずにストレートに唄いあげており、そのスタイルはかつてのアイドルのジョニー・ホッジスに負うところが大きい」とあります。私はこの原曲を大切にするコルトレーンの姿は、このセッション、そしてこの曲でのアモンズの演奏から学び取ったところが大きいと、思っております。
この曲の後にアモンズはリチャードソンと3曲を収録しておりますが、コルトレーンは参加していません。




【エピソード、アルトのコルトレーン】
資料11に次の記述があります。
コルトレーンのアルトのアプローチは、そのテナーのスタイルとはそうは違わない。実際、テナーをそのままずっと高くしていったような感じがしないでもない。彼は奔放に吹きまくっており、時折標的の高音の上をかすめ飛ぶような勢いさえある。
ジャズの歴史家のルイス・ポーターは最近、フィル・シャープの情報に従って、1946年の海軍時代にコルトレーンがひそかにアルトで吹き込んだレコードの所在を突き止めた。これら二つを聴き比べるに、初期の19歳のコルトレーンは、影響的にはジョニー・ホッジスとチャーリー・パーカーの中間にあり、サックスの基礎的な技術とハーモニーを習得している最中であるのに対し、その12年後には、パーカーの影響はほとんどなく、名人級の技術とハーモニーの博学的知識を身につけている。パーカーの死から3年もたっていないというのに、コルトレーンはそのアプローチをメロディとハーモニーの極めて新しい見方へと変えていた。
 

12度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年11月 7日(木)07時28分45秒
  19580103-03
The Real McCoy (Mal Waldron)
(8分34秒)


【この曲、この演奏】
シド・マッコイというディスク・ジョッキーに捧げてマルが作った、アップ・テンポのリフ・ブルースです。(資料09)
この曲の演奏記録はコルトレーンもマルも、本セッションだけです。(資料06,08)
全員参加のこの曲では、ジャム・セッションの楽しさを味わえる演奏で、アモンズの存在感がいきているのと、リチャードソンのフルートが効果的にアレンジされているのが印象的です。この2点については、ここまでの出だし3曲に共通して言えることであり、更に5管の重なりの妙も楽しめ、この意味ではアモンズの狙いとマルの仕事が生きていると言えます。




【エピソード、このセッションのコルトレーンについて】
1957年の春にヤク断ち酒断ちして、快進撃の波に乗ったコルトレーンなのだが、資料01にはペッパー・アダムスの次にような証言がある。
ジョンは麻薬を打って酒を飲むという不摂生をしていたので、よく胃痛に悩まされていた。ジーン・アモンズの仕事で彼と一緒にレコーディングをやった時のことだが、ミュージシャンたちは全員プレスティッジの事務所に集合して、ルディ・ヴァン・ゲルダーのスタジオへ行く車を待っていた。ジョンは胃の具合が悪くなり、何かいい治療法がないかと片っ端から仲間に問てまわっていた。ブリオッシュ(卵とバター入りのロールパン)がいい、いやアルカ・セルツァーを飲まなきゃだめだという者もいたし、ビタースが一番だとすすめる者もあった。ジョンは私のところにも来たので「今日の仕事は、大変なレコーディングだから、今言われたのを全部試した方がいいぜ」と冗談半分に答えた。結局、彼はネイマからもらった果物を少し食べただけで、誰の意見も信用しなかったのだ。
このアダムスの話は胃痛を中心にしたものだが、コルトレーンがこの時にも薬と酒に頼っていたかのような記述があるし、その時期はアモンズのレコーディングなので、1958年1月しかない。
この辺りの話の真意は確かめようもないが、一つの話としてここに書いておく。
 

11度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年11月 6日(水)07時33分8秒
  19580103-02
Groove Blues (Mal Waldron)
(9分33秒)


【この曲、この演奏】
引き続きマル作の曲で、全員参加で演奏しています。またコルトレーンもマルも、この曲の演奏記録は本セッションだけです。(資料06,08)
ウキウキのミドル・テンポのブルースですが、どうってことないテーマもこの5管で奏でると重量感と幅の広がりを感じる演奏になります。テナー2本、アルトとバリトン、そしてフルートが1本という構成の色彩が、この曲のテーマではいきています。
管楽器5人共にソロが用意されており、アモンズの存在感はさすがのものです。そしてコルトレーンは例の音の重なりに磨きがかかっていくかのものです。



【エピソード、1954年9月、ホッジス楽団を辞める】
週給250ドルと恵まれた収入をホッジス楽団で得ていたコルトレーンだが、ヤク中が理由でホッジス楽団には居られなくなった。仕事が無くなれば薬と酒にさらに溺れていき、そこに例の歯痛も厳しくなったが歯医者に行く金もなく、更に酒で誤魔化すとの日々であった。(資料01)
この時期のコルトレーンは、本当にどん底だったのであろう。資料06を眺めても、ホッジス楽団を辞めて翌年秋にマイルス・バンドに入るまでの1年間のコルトレーン演奏記録は、2回しかない。1954年12月31日のテッド・カーソンのバンドでのライブ、そして1955年冒頭のジミー・スミスのバンドでの演奏であった。
 

11度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年11月 5日(火)07時32分28秒
  19580103-01
Ammon Joy (Mal Waldron)
(13分17秒)


【この曲、この演奏】
このセッションの音楽監督のマル・ウォルドロンが、本セッションのリーダーのジーン・アモンズの名前をつけて作った曲です。
コルトレーンもマルも、そしてリーダーのアモンズも、この曲の演奏記録は本セッションだけです。(資料06,08)
セッションの最初にみんなで楽しく合わせましょう、ということに相応しいミディアム・テンポのほんわかした笑顔の曲であり、演奏になっています。テーマではリチャードソンのフルートを効果的に使っており、この演奏の雰囲気を作っています。
ソロの先発はアモンズの余裕で貫禄のテナーです。リチャードソンを挟んでのコルトレーンのアルトは、テナーでの演奏の音域を上げたものであり、何か違ったコルトレーンの姿を出すものではなく、この時期のコルトレーンがそのまま出ているものです。ソロはアダムスとマルと続き、エンディングを迎えます。この曲は全員参加なのですが、クィニシェットにはソロが用意されていないのは何故かなと思います。




【エピソード、本セッションについて】
ジーン・アモンズがリーダーのセッションであり、マルが音楽監督で、合計8曲が収録された。
管楽器奏者は5人参加しており、リーダー以外では次の通りの管楽器奏者構成だ。
全員参加(fl, as, ts x2, bs)が3曲
リチャードソンとアダムス入りで1曲
コルトレーンと二人で1曲
リチャードソンと二人で3曲
8人編成でのセッションになった理由について、資料11に次の記述がある。
サックス3本の編成予定が、他の場所から来ることになっていたアモンズの到着が危ぶまれたので、クィニシェットがいざという時の代役として呼ばれており、アモンズがスタジオに間に合ってもそのまま残って3曲に参加した。
本セッションの興味の中心は、コルトレーンがアルト・サックスで参加していることである。1940年代はアルトでの演奏に励んでいたコルトレーンであったが、クリーンヘッド・ヴィンソンのバンドでテナーを吹いていたこともあった。1950年代に入ると、ガレスピーがビッグバンドをコンボに縮小した1951年初めから、コルトレーンは本格的にテナーに専念するようになっていた。
本格的なプロ奏者として、ソリストの場面を用意されるミュージシャンとして活動開始となった1955年からも、テナー・サックス奏者コルトレーンであった。
本セッションでコルトレーンがアルト・サックスを演奏した理由について、資料09では「アモンズとクィニシェットというテナーの御大達を前にして、コルトレーンはアルトを吹かされたのであろう」とあるが、アルト・サックスが必要ならば何人も候補が居るだろうと思う。
また資料11にはアイラ・ギトラーの話として、「その時コルトレーンのホーンは修理屋にあり、ギトラーはコルトレーンに頼まれて自分のホーン、即ちアルト、を貸したということだ」とある。ギトラーがアルト・サックスを持っていたことに感心するのだが、コルトレーンのテナーが修理屋というのはどうだろうか、資料06でのコルトレーンの演奏記録を見ると、本セッションの前が1957年12月25日のマイルス・バンドでのシカゴでのライブである。本セッションの後は1週間後の1月10日の、プレスティッジでのコルトレーンのリーダー・セッションである。アイラ・ギトラーの話からすると、テナー・サックスの入院期間は2週間弱ということになる。
本セッションはアモンズ名義で2枚のアルバムとして発売された。
そしてコルトレーンとアモンズの共演は、本セッションだけである。(資料06)
 

13度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年11月 4日(月)07時36分32秒
  19571220-05
Paul's Pal (Sonny Rollins)
(7分14秒)


【この曲、この演奏】
このロリンズ作の曲は、ロリンズが1956年5月24日のプレスティッジでのセッションで演奏した曲です。そのセッションにはコルトレーンも加わるのですが、この曲ではコルトレーンは参加しませんでした。それから1年半後のこのドレイパーのセッションでコルトレーンはこの曲を演奏することになるのですが、資料06によるとコルトレーにはこの曲の演奏記録がもう一つあります。それは1958年9月25日のジョー・ブラジルのセッションでした。
微笑ましい雰囲気での演奏です。テーマではドレイパーはコルトレーンの引き立て役に徹し、そのコルトレーンはロリンズのようなおおらかな演奏です。ソロのコルトレーンも、彼のスタイルですが微笑ましいもあるものです。ドレイパーも演奏の雰囲気をしっかりと理解した演奏です。強いて難を言えば、テーマとコルトレーンのソロの間にあるピアノのソロ。前半はここぞとばかりに頑張りますが、後半はネタ切れのご様子です。
微笑ましいコルトレーンも良いもんだ、と感じる演奏です。



【エピソード、1953年 ボスティック楽団からホッジス楽団へ】
コルトレーンが自分を救ってくれたボスティック楽団を辞めた理由ははっきりしない。1953年にコルトレーンは1953年に、エリントン楽団を辞めて自分のバンドを率いていたジョニー・ホッジスのもとで演奏を始めた。
このホッジス時代のコルトレーンは、薬漬けの日々であった。その中でもコルトレーンはホッジスから学ぶものが多くあった。
最も貴重だったホッジスから学んだことは、音の抑揚であった。ホッジスは一つ一つの音を引きのばして演奏し、それぞれの音がまるで女であるように、そのすべてを愛し、差別などとてもできないかのように一つ一つの音をやさしく愛撫しているのをコルトレーンは耳で確かめた。例えば、ホッジスが「ウォーム・ヴァレー」を演奏する時、コルトレーンは、その指使いを眼で追いながら。自分の楽器でなぞっていた。もちろんマウスピースに息を吹き込まずそっと指を動かすだけだった。(資料01)
 

15度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年11月 3日(日)08時08分58秒
  19571220-04
Two Sons (Ray Draper)
(5分23秒)


【この曲、この演奏】
ドレイパー作の曲で、コルトレーンの演奏記録は本セッションだけです。(資料06)
昭和の歌謡曲の匂いのするテーマで、心惹かれるメロディを、チューバとテナーで仲良く演奏しております。最初のソロは何とピアノのコギンズですが、マイルスに声を掛けられるだけあって、無難に大役を果たしています。そしてドレイパーからコルトレーンとソロが続くのですが、何ともその対比の妙味に聴き入ります。資料09ではこの対比を「コルトレーンの小気味良いテナーが出てくると、カタルシスを覚えてしまうのは、ドレイパーには可哀そうだがやむを得まい」とあります。ジャズ喫茶でしかめっ面で聴くならこのコメントに頷けますが、自宅で気軽に楽しく聴いていれば、ドレイパーの存在も味のあるものとなります。



【エピソード、ボスティックからの学び】
「サキソフォンはプラスチック製ではない。簡単に形を変えることはできない。となれば答えは一つ、君の指を変えることだ」
コルトレーンはボスティックにいろんなことを質問し、ボスティックは時間の許す限りその質問に答えた。またコルトレーンの指が並の人間よりはるかに長いことから上記のことを言い、サキソフォンのそりに合わせて指を曲げる奏法をコルトレーンに教えた。
楽旅での車移動の際にはボスティックが運転していたが、そこでもコルトレーンはボスティックに質問を浴びせていた。
「手帳をよこしな。この先の断崖絶壁から真っ逆さまに転落する前に、君の知りたいコード変化のことを書いてやるから」
こう言われてコルトレーンはようやく質問を止めるほどであった。(資料1)
 

14度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年11月 2日(土)07時47分36秒
  19571220-03
Filide (Ray Draper)
(7分14秒)


【この曲、この演奏】
引き続き、ドレイパー作の曲です。コルトレーンの演奏記録は本セッションだけの曲ですが(資料06)、資料09によればマクリーンのリーダー作「ファット・ジャズ」でも取り上げられた曲とのことであり、またマックス・ローチの作品でも取り上げられています。
マイナーな悲しげなこの曲は、多くの人が心動かされるメロディなのでしょう。テーマでのテナーとチューバのアンサンブルが心憎い雰囲気を出し、それに続くコルトレーンのソロもテーマから刺激されてのもので、このセッションでのコルトレーンの快調な様子が伺えます。続くドレイパーのソロも、かなりの頑張りを見せています。
曲名はギリシャ神話の登場人物のフィリスのことのようで、神話での悲しき物語が、この演奏から聴こえてきます。




【エピソード、ウォーキン・ザ・バーからの脱却】
リズム&ブルースを演奏しながらのミュージシャンとして屈辱的なことを要求されうバーの仕事は、生活費を稼げて、しかもその屈辱を酒で紛らわすこともでき、そこに身を沈めていた多くのミュージシャンにとってはなかなか抜け出せないことであった。
コルトレーンもそんな仕事からなかなか抜け出せなかったが、1952年に抜け出すチャンスを得たのは、これまた人の出会いであった。
アルト・サックス奏者のアール・ボスティックは、1951年に「フラミンゴ」を大ヒットさせ、常に自分のバンドを抱えられる仕事と現金を得ていた。
1952年初めにコルトレーンはボスティックのバンドに参加した。その理由は”クリーンヘッド”ヴィンソンに雇われた時と同じく、自分の選んだ楽器についてもっと多くのことを学び、偉大なサキソフォン奏者と一緒にするためであった。さらにコルトレーンにとって嬉しかったのは、ボスティックが良い条件を出してくれたことであった。
ボスティックのバンドのピアノ奏者は、ジョー・ナイト出会った、コルトレーンはすぐにナイトと仲良くなった。コルトレーンのソロの際には、ナイトは演奏し易いコードをうまくつけてくれた。また二人はボスティックの音楽について、彼らなりの研究をしていた。そんな中でコルトレーンはハーモニーにますます関心を抱き、そんな彼にナイトはピアノをできるだけ勉強するようにすすめた。このことはコルトレーンに、「調律された音階とピアノは十八世紀に生まれたもので、ヨーロッパ音楽のハーモニーの源泉である」ことを思い出させた。
またコルトレーンとナイトは、大酒飲みでも同じであった。
 

14度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年11月 1日(金)07時55分51秒
  19571220-02
Clifford's Kappa (Ray Draper)
(9分16秒)


【この曲、この演奏】
レイ・ドレイパー作の曲で、コルトレーンの演奏記録は本セッションだけです。
曲名の意味を考えてしまいます。先ずは「kappa」ですが、ネットで調べたところこれはスラングで「皮肉」「冗談」を含ませる意味の言葉とのことです。例えば「You’re handsome kappa」とあれば、「君はハンサムだねという賛辞ではなくただの煽り」とのことです。
では「Clifford」は何かと言えば名前(1stネーム)で使われ、ジャズ界に何人もいるのでしょうけれど、一般的にはブラウニーのことになるのでしょう。
しかし「ブラウニーの皮肉」となると何を言いたいのか分からず、そもそも前提付きな訳ですから、これ以上に考えるのは意味のないことでしょう。
さて演奏ですが、チューバという楽器をソロで使うにはその表現方法に限りがあり、どうしても朴訥とした演奏になってしまいます。ドレイパーは天才と言われていただけのことはあり、またプレスティッジがリーダー作を用意しただけに、このソロには向かない楽器を上手く使いこなしていますが、そこには楽器の限界があります。そんなチューバのドレイパーに寄り添うコルチレーンはドレイパーの演奏を意識して、いつもより緩やかな演奏をしています。
ミドル・テンポの楽しい曲を聴きながら、ドレイパーとコルトレーンの演奏風景を思い浮かべ、ニヤリとしてしまいます。






【エピソード、1951年のコルトレーン、板歩きの刑のような仕事】
レッスンを受けながら、音楽とテナー・サックスの勉強と研究の日々を送った1951年だが、生活費を稼ぐ必要が、当然ながらコルトレーンにあった。
この時期はリズム&ブルースが全盛であり、巷のバーでは単純さを売り物にした風変わりなショーが流行っていた。演奏はどデカイ音でリズム&ブルースをがなりたてていた。そして「ウォーキン・ザ・バー」と呼ばれたスタイルで演奏するのであった。ステージで演奏するだけではなく、バーのカウンターを、客の指や飲み物を踏まないようにして、体をひねりながら何度も歩くというものであった。客は狂気じみたその行為を喜び、店側は売上に喜び、ただしミュージシャンはFワードを口にしたい気持ちをぐっと堪えていたのであった。
まさにこれは、舷側から突き出た板の上を目隠しされて歩くようなもの、であった。コルトレーンもこの板歩きの刑のような仕事をしながら、生活費を得ていたのであった。(資料01)
 

15度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年10月31日(木)07時30分30秒
  19571220-01
Under Paris Skies (Giraud - Drejac)
(7分47秒)


【この曲、この演奏】
この曲はシャンソンの世界では有名な曲であり、他の世界の方々も取り上げている曲のようです。アメリカのポップス界のスターでしたアンディ・ウィリアムスのが有名であり、ジャズ界でも取り上げている方がいるようです。
この曲のコルトレーンの演奏記録は、本セッションだけです。
冒頭のテーマではコルトレーンがテナー・サックスの中音域の魅力を生かした演奏を聴かせ、その後のドレイパーのソロはチューバの低音域を聴かせる朴訥とした演奏、そして続くコルトレーンのソロはテナー・サックスの高音域の魅力をダブルタイムで聴かせるもので、この流れだけで楽しめる演奏です。しかし仕掛けはこれからで、「アルルの女」を使っての一幕を入れて、再びコルトレーンとドレイパーの魅力を味わえるものです。
この数年後にはLAとロンドンで数十年に渡って編曲の世界で活躍したドレイパーさんと、研究熱心なコルトレーンが会得してきた音域による魅力とが合わさっての、この演奏に繋がったのかと思います。



【エピソード、本セッション】
まずは本セッションの主役であるチューバ奏者のレイドレイパーの経歴を、「新・世界ジャズ人名辞典」より紹介する。
1940年にNYに生まれた彼は、早くからチューバの天才少年と知られており、1956年から1957年には自己のグループでバードランドに出演していた。その一方で彼は、オーケストラでの作編曲でその才を示していた。1958年から1959年にはマックス・ローチのグループに参加していたが、1960年代以降はLAで映画関係の仕事に専念していた。ジャック・マクダフのBN盤へのスコアの提供などの活動も残していた。1969年には渡欧し、ロンドンを舞台に幅広い音楽活動をしていた。1980年頃に帰米し、1982年に42才で亡くなった。
次に本セッションについて、資料11には次のようにある。
コルトレーンのこの年最後のプレスティッジ(正確にはNJ)セッションを飾るのは、チューバとテナーという、大変毛色の変わったフロント・ラインである。新人のリーダー、チューバ奏者のレイ・ドレイパーは、伝えられるところでは、高校生でコルトレーンと知り合い、コルトレーンからこの録音のための準備を手伝ってもらったという。そのアレンジは、重苦しくなりがちなこの編成から、なるべく多くのヴァラエティを引き出そうという試みがみて取れる。
コルトレーンはこの録音に親愛を持って接しており、彼が全てのセッションを真剣にとらえていたことが今更ながらに伺える。
コルトレーンとレイ・ドレイパーの共演は2回あり、本セッションとその一年後のジュビリー・レーベルへのセッションである。両セッション共に、レイ・ドレイパー名義でLP化されている。(資料06)
リズム陣は知名度のない3人だが、ピアノとベースの二人は「新・世界ジャズ人名辞典」に名前がある方だ。
コルトレーンとの共演については、ピアノのGil Cogginsは、1957年のマイルス・バンドでの共演歴がある。ベースのJames "Spanky" De BrestとドラムのLarry Ritchieとは、1958年のレイ・ドレイパーのジュビリーでのセッションで、コルトレーンは顔を合わせている。さらにベース奏者とコルトレーンは、1959年春のケニー・ドーハムのセッションで一緒に演奏している。この情報は、1991年7月4日に資料06の編者が大阪ブルーノート出演中のシダー・ウォルトンから聞き取ったものだ。(資料06)
 

13度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年10月30日(水)07時45分10秒
  19571213-05
Lazy Mae (Red Garland)
(16分8秒)


【この曲、この演奏】
この曲はガーランド作のブルースで、コルトレーンもガーランドも本セッションだけでの演奏記録です。(資料06,08)
この手のゆったり長尺リフ・ブルースは、下手するとウダウダ演奏に終わってしまいますが、流石はこのメンバーですので、存在感あるウダウダ演奏になっています。ガーランドが8分、コルトレーンが3分、そしてベースにも2分、トランペットに2分、最後に再びガーランドの登場となっています。最後のガーランドのソロは、1分ほどのものですが、レコード化ではフェイドアウトなので、実際には3分ほど弾いていたのでは。
この中で個性を示す方々はやはり流石であり、この演奏でガーランド愛好家の間でいわれている「ガーランドのマラソン・セッション」は終了となります。


【エピソード、サンドルからの教え、1951年】
コルトレーンは毎日学校に行ったし、週末はできる限り演奏の仕事をするようにしていた。熱心な練習を行うかたわら、ガレスピーやバンド仲間にいわれた本も読んでいた。
学校でコルトレーンは、ラステリとはレッスン以外では親しくならなかった。しかしサンドルとはいろんな話をした。
「クラシックを聴くんだ、ジョン」
「偉大な作曲家たちがバイオリンの独奏曲から交響曲にいたるまで、あらゆる楽器を使った曲を書いている。君はまずその技法を聴き取るんだ。次には、そのエッセンスを抜き出して、君の愛する楽器、サキソフォンに移し変えてみるんだ」
コルトレーンはサンドルからのこの助言を素直に受け入れた。そんな中でコルトレーンが「自分がたくさんの楽器がひしめく海のただ中で泳いでいて、それら音楽の波が自分を高くのせて岸に打ち寄せるような感じがした」と行ったところサンドルは、「すばらしい」「だがその中で弦楽器群がどんな役割を果たしていたかわかるかい」とコルトレーンに質問した。困り顔のコルトレーンにサンドルは、「弦楽器は連続する倍音を巧みに使って、高音域で拡大された調整を演奏しているんだ。テナーの場合に、君は全ての七度音コードを十三度音に拡大するのとまったく同じことだ。こうしてコードの高さはますます高くなる。君だって同じことをしているはないか」と言った。
この後も幾つかの会話が続いた後にサンドルはコルトレーンにこう言った。
「君が他のサックスを吹くのをきいてみたい」「ソプラノがいい、ジョン」「よく考えてみるんだ」(資料01)
 

15度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年10月29日(火)07時50分38秒
  19571213-04
Soft Winds (Benny Goodman)
(13分46秒)


【この曲、この演奏】
ベニー・グッドマンが1939年に初演した曲で、アート・ブレイキーが取り上げたことで、ハードバップ期に取り上げられるようになった曲です。(資料14)
コルトレーンのこの曲の演奏記録は本セッションだけですが(資料06)、ガーランドはこの4年後にプレスティッジのレコーディングでこの曲を取り上げています。(資料08)
ガーランドが7分、コルトレーンが3分、そしてバードが2分のソロをとっていきます。
資料11にはガーランドのソロについて、「ソロイストのガーランドがスティームローラーのごとく段々と弾みをつけ、最後に力強いブロック・コードで(マッコイ・タイナーがその数年後よくやったように)コルトレーンの入場をお膳立てをする」とあります。
決してガーランドはコルトレーンの引き立て役ではありませんし、楽しく気分良く7分のソロを聴かせています。ただコルトレーンのソロになるとガーランドが実に控えめなバッキングなので、この意味からは確かに資料11指摘のような後年の演奏が垣間見れるものです。
コルトレーンがベニー・グッドマンの曲を演奏したのは、記録がある限りではこれだけのものです。そんな意味でも関心を持つものです。



【エピソード、1951年のフィラデルフィアにて】
1951年の始め頃(多分4月)、ガレスピーバンドを辞したコルトレーンは、家族が住むフィラデルフィアに戻った。既に従姉妹のメアリーもそこに住んでおり手狭であったため、コルトレーンは復員兵士の貸付制度を利用して、また母親が長年の家事手伝い仕事で貯めたお金と合わせて、家を購入した。
フィラデルフィアに住まいを得た後にコルトレーンは、グラノフ音楽学校に入学した。ガレスピーとパーシー・ヒースの推薦状があったこともあり、すんなりと入学できた。デニス・サンドルが音楽理論の教師となり、マシュー・ラステリからサックスのレッスンを受けた。その時のコルトレーンはテナー・サックスを持っており、練習も勉強も演奏も全てテナー・サックスに集中した。(資料01)
 

18度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年10月28日(月)09時49分7秒
  19571213-03
Two Bass Hit (Gillespie - Lewis)
(8分49秒)


【この曲、この演奏】
アル・ヘイグの後を受けてガレスピー・バンドのピアニスト兼アレンジャーとなったジョン・ルイスが書いた曲で、「ワン・ベース・ヒット」に呼応した曲です。ガレスピー・バンドは勿論のこと、マイルスやソニクラの良い演奏を行った曲です。(資料14)
この曲のコルトレーンの演奏記録は5回あり、本セッションの他の4回はマイルスバンドでのものです。1955年10月のラウンド・ミッドナイトのセッション、1958年2月のマイルストーン・セッション、1958年5月のカフェボヘミアでのライブ、そして1958年7月のニューポート・ジャズ祭での演奏です。カフェボヘミアを除いての3回のマイルスバンドでの演奏は、正式盤で世に出ています。(ラウンド・ミッドナイトのセッションの演奏は、別のアルバムで世に出ています)(資料06)
ガーランドも何度かこの曲を演奏していますが、コルトレーン同様に本セッション以外はマイルスの元での演奏です。(資料08)
さて演奏ですが、リズム陣の粒立ち鮮やかな演奏です。特にテイラーの切れ味が印象に残る演奏です。爽快なホーン陣もなかなかであり、特にドラムの切れ味に乗って飛ばすコルトレーンには、後年の姿を予感させるものがあります。



【エピソード、リードを試す、1957年10月】
資料12に、帽子姿のコルトレーンがテナー・サックス用のマウスピースを眺めている写真、そしてそれを吹いて試している写真が掲載されているページがある。そこにはこう書かれている。
ブロードウェイの52丁目のバードランドにほど近い所に、「Vibrator(ヴァイブレイター)」と言うリードの会社がある。モンクとのファイブ・スポット・ギグのさ中、新しいサウンドを求めて、リードやマウスピースの研究にも余念の無かったコルトレーンは、そこを訪れ色々なリードを試している。オシャレなハットが珍しく、ほほえましい。
先の2枚の写真はマルセル・ザニーニが1957年10月27日頃に撮影したとのことだ。
またこのページには、1990年9月24日に藤岡氏がアリス・コルトレーン邸で撮影した、コルトレーンが使用したマウスピースの数々の写真がある。コルトレーンの熱心さが伝わる写真だ。
 

17度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年10月27日(日)08時06分31秒
  19571213-02
Solitude (Ellington - Delange - Mills)
(8分31秒)



【この曲、この演奏】
エリンとの名バラッドです。後からつけられた歌詞は、「これほど不幸になれる人がいるものか。どこもかしこも薄暗いばかり」と、絶望のどん底の内容です。それを歌い上げたのがビリー・ホリデイ。そして数多くのミュージシャンによって、この曲は今でも輝く存在になっています。(資料14)
「エリントンがスタジオで曲数不足のため、メンバーが到着するまでの20分で書いた曲」というのが、この曲が誕生した有名な逸話です。しかし、急遽こしらえた曲が名曲に、というのは世に中に数多あるもの。また作曲を行うミュージシャンには、次から次にメロディが舞い降りてくる時期があるもの。35歳のエリントンは、まさにそんな時期にこの曲を作ったのでしょう。
この名バラッドをコルトレーンはなどか演奏しているかと思いきや、資料06によれば本セッションだけの演奏記録です。そして資料08によれば、ガーランドも同様にこの曲の演奏記録は本セッションだけです。
さて演奏ですが、至極のバラッドをサラッとした優しさで聴かせています。ガーランドとコルトレーンも、甘さの加え加減で個性を感じられる良い演奏です。その中で白眉は、バードのトランペットでしょう。ブラウニーが亡くなってから1年半経った時期ですが、JMでの活動などで経験を積んだドナルド・バードのハードバップ絶頂期の中での存在感を示す演奏といえ、トランペット奏者としての実力を示すものです。
私ならこの曲の名演ベスト10に、この演奏を加えたいです。



【エピソード、1957年10月27日の演奏】
資料12に次の記述があります。
マンハッタン52丁目西310番地、パーム・ガーデンズに勢揃いしたハード・バップの覇者たち。ドナルド・バード(tp)、フィル・ウッズ(as)、コルトレーン(ts)、レッド・ガーランド(p)、トミー・ポッター(b)、アーサー・テイラー(d)。
1957年10月27日、日曜日の午後、「サンディ・アフタヌーン・ジャズ」シリーズが始まった。駆け付けたサックス奏者マルセル・ザニーニはカメラを構えこの貴重なシーンをフィルムに収めることに成功。しかし、事前の告知が不十分だったため会場に客の姿は「10人ほどかなぁ」というまことにもったいない有り様。
ドナルド・バードはソニー・ロリンズのバンドに入っており、当日は日曜のマチネー(昼公演)のためヴィレッジ・ヴァンガードに出演する予定であった。しかし、実際ここに写っていると言うことは、既にロリンズバンドを辞していた、このあとすぐにヴァンガードへ駆け付けた、このどちらかであろう。
コルトレーンはこの夜、モンクとファイヴ・スポットに出演。
ちなみにパーム・ガーデンズは、コルトレーンが7年後の1964年4月8日(水)、マルコムXの演説を聞きに行って、おおいに感銘を受けた場所である。

マルセル・ザニーニが撮影した2枚の写真と共に、この文章が資料12にある。なんとも贅沢な瞬間と思う演奏風景の写真であり、文章と共にこの時期がハード・バップの絶頂期であることが感じられる写真であり、たった10人の客という残念な様子も伝わる写真でもある。

ちなみにこの日の演奏記録は、資料06, 07, 08, 09に記述がないもの。そこに「何故に?」との思いが湧くのだが、藤岡氏が編纂した資料12なので、この催しが1957年10月27日にパーム・ガーデンズであったのは事実なのであろう。
私は10人の観客の中に、テープレコーダーを回している人がいて、その人の孫が屋根裏整理でそれを発見して、「世紀の・・・」との宣伝文句と共に世に登場する時がくるのを待っていたい。
 

14度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年10月26日(土)07時32分47秒
  さてクリスさんの「マイク ジャケ」作品。
クリスさんがこの時期前後にアトランティック・レーベルに吹き込んだ多数のスタジオ作品と比較しますと、本作には汗が似合う熱さがあります。アップテンポではケニー・バレルのギターの力も借りて、テンポの良い熱さ。そして「'Round Midnight」と「All About Ronnie」と続くスローでは、熱く語りかける様子が素敵でした。
タイトルの意味はこの日に会場に来た人ではなく、レコードで聴く人に向けてのもの、「ここにいる私を感じて」との意味かなと考えながら、つまみ食いを終えました。
 

15度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年10月25日(金)07時28分55秒
  その前に、この作品が録音された1959年9月13日(日)の新聞を見てみましょう。
先ずはトップ記事。
日経「ソ連、月ロケット打上げ、あす朝(日本時間)到達へ、フ首相の訪米を目前に、人口すいせいを放射」

読売「ソ連、月ロケット第二号を発射、明朝6時5分到達、最終ロケットは誘導式、最終段は1トン半」

朝日「ソ連、月ロケットを発射、明朝六時(日本時間)到達へ、モスクワ放送 、最終段階は一トン半」

ソ連のルナ計画は、無人月探査計画であり、1959年から1976年までの間に、ルナ1号からルナ24号までを月に送った。アメリカとの激しい宇宙開発の中でソ連は、月面衝突を目指していた。3回連続の失敗の後の1959年1月に、4回目で月へ向かう軌道に探査機投入に成功し、これをルナ1号と名付けた。
この記事にあるのはルナ2号であり、ルナ1号から1回の失敗を挟んでのものであった。このルナ2号は世界で初めて月面に到達した人工物となった。これから3週間後にはルナ3号を打ち上げ、月の裏側の撮影に成功した。この時点では宇宙開発において、ソ連はアメリカを引き離していたのであった。(ウィキペディアより)



ではこの9月13日の新聞から少しばかり紹介します。
・2面に「ア大統領に報告」との見出しの小さな記事があります。ハチガー大統領新聞係秘書が語ったもので、ソ連の月ロケットに、大統領は驚いていないと語ったとの内容です。普通に考えればこれは見栄であり、当然ながらアイゼンハワー大統領は悔しさめい一杯だったのでしょう。ちなみにハチガー大統領新聞係秘書とは、翌1960年のハチガー事件のジェイムズ・ハガティ(当時の日本の報道機関の表記はハチガー)のことです。
・8面に「アイレスカメラ」の広告があります。「名キャッチャー、明るいファインダー、優秀な頭脳部」と、宣伝しています。広告主はアイレス写真機製作所です。この会社は1949年にヤルー光学としてスタートし、順調に事業を推移してきて、1956年の工場火災での危機も乗り越えていましたが、新設計のレンズ交換式カメラの売れ行きが芳しくなく、1960年に倒産となりました。
・TV欄 日テレ 13:15からの「日曜劇場」は東京喜劇人劇として、「ネット裏に娘ありて」を放送しています。出演者は、榎本健一・柳家金語楼・古川緑波・水谷良重との豪華メンバーです。
 

18度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年10月24日(木)07時14分55秒
  「今日の1枚からつまみ食い」、今回のテーマは「マイク ジャケ」です。


「マイク ジャケ」作品の35枚目は、Chris Connor の Chris In Person、1959年9月13日の録音です。
クリスさんのヴィレッジ・ヴァンガードの舞台上での熱唱が伝わるジャケで使われているマイクは、アルテック639のように見えます。日本ではこのマイクは、「鉄仮面」の愛称で知られているそうです。クリスさんが鉄仮面マイク、何やら意味深の気がします。
本作を「今日の1枚」で取り上げたのは、2005年5月26日のことでした。その際の私の感想は「貫禄を感じさせる歌いっぷり」とのあっさりしたものでした。今回のつまみ食いでは、もう少し文字数を多くして、感想を述べたいです。
 

14度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年10月23日(水)07時40分43秒
  さてアルヴァニタスさんの「マイク ジャケ」作品。
何度聞いても、ドラムとベースが力強く輝くピアノ・トリオは良いもんだと、本作に唸る次第です。そしてアルヴァニタスさんのピアノは、スィング感の爽快さの中に垣間見られる悩む人間の心情の表現が、ため息が出るほど素敵なものです。
愛すべきピアノ・トリオ、改めて実感したつまみ食いでした。
 

15度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年10月22日(火)08時01分11秒
  その前に、この作品が録音された1958年9月10日(水)の新聞を見てみましょう。
先ずはトップ記事。
日経「税制改正 早急に具体化、きょう税制委員会懇談会再開、公約の線崩れそう、地方税減税で波乱必至」
いつの時代も、どの国でも、公約では減税としますが、その実現は難しいものですね。

読売「ダレス長官、日米会談前に語る、安保条約変更も、日本の提案 同情的に討議」
国務長官ジョン・フォスター・ダレスは日本に強い影響力を持っていた方です。ウィキペディアによれば1956年には日本に、北方領土の択捉島、国後島の領有権をソ連に対し主張するよう強く要求し、「もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とする」と指摘して日本側の対ソ和平工作に圧力を加えたとあります。

朝日「衆院 決算委で追及、主力戦闘機の内定、最終決定まだ、国防会議運営を再検討、首相答弁」
この時代から政府・自民党・裏役は、グラマン派とロッキード派に別れていたようです。



ではこの9月10日の読売新聞から少しばかり紹介します。
・4面には、「機械業界も不況へ」「長期合理化急ぐ肥料業界」と、景気の悪い記事が並んでいます。この時期はなべ底不況のどん底状態でした。
・9面社会面下の広告は「トヨタ毛糸編機」で、愛知工業の広告です。
私は子供の頃に実家に毛糸編機がありましたが、現在の編機は随分と小型化されています。また製造会社はかつての主要メーカーだったブラザー工業とシルバー精工が編機事業から撤退し、現在ではシルバー精工から事業継承となったドレスインという会社が毛糸編機を製造しています。
因みにこの広告の愛知工業についてですが、明確な情報をネット上からは得られませんでした。今ある愛知工業は1985年に設立された鉄鋼製品の加工会社です。また1943年創業の愛知機械工業は、日産自動車の機能子会社です。豊田自動織機のかつての製造品目を見ても毛糸編機はなく、この「トヨタ」というブランドを使っている愛知工業の存在が謎のまま、私の調査は終了しました。
・TV欄 22:35 NHK「落語」は古今亭今輔が演じる「もう半分」です。この三遊亭圓朝作の怪談噺は、古今亭今輔の十八番でした。
 

18度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年10月21日(月)07時50分22秒
  「今日の1枚からつまみ食い」、今回のテーマは「マイク ジャケ」です。


「マイク ジャケ」作品の34枚目は、Georges Arvanitas の 3.a.m. 、1958年9月10日の録音です。
目覚めて再び眠りに入れずに、午前3時頃に集合住宅群の自室から他の建物を見ますと、何室かに明かりが灯っています。そうすると、あの部屋の人はこれからベッドに入るのか、それとももう起床したのかと、動かない頭を回し始めることがあります。
そんな意味合いから考えると、午前3時というのは微妙な時間となります。一般人は深い眠りの時間と考えますが、早い時間からの仕事に起床している方もいることでしょう。
一方でこの時間帯が、一日の活動の最後である人達も多くいるはずです。ジャズ好きに音楽を提供してくださる方々も、そんな方々なのでしょう。
そんな時間をタイトルにした本作を「今日の1枚」で取り上げたのは、1999年10月16日のことでした。ダグ・ワトキンスとアート・テイラーの演奏を絶賛し、「この時代はまだ一般に言われているヨーロッパのハイ・センスな独特な雰囲気は、アルヴァニタスに限らず、まだ成熟していなかったのでしょう」と、私は分かったフリの感想を書いておりました。
ベースとドラムには上から1本のマイクだけで録音に望んでいる様子のジャケの演奏を、今日はつまみ食いします。
 

19度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年10月20日(日)08時21分12秒
  さてミルトさんの「マイク ジャケ」作品。
ドラムはジェフ・ハミルトン。40歳代となった1990年代中盤から素敵なリーダー作を発表している方で、この「今日の1枚」でも、そんな作品を6枚取り上げてきました。しかし本作に参加した時は24歳で、プロ活動を始めたばかりの時でした。そんな時代のハミルトンは、モンティ・アレキサンダーのトリオで腕を磨いていました。
ベースで本作に参加しているジョン・クレイトンも、25歳の本作時点ではモンティ・アレキサンダーのもとで活動していました。
クレイトンとハミルトン、二人はその後の1985年にクレイトン・ハミルトン・ジャズ・オーケストラを結成し、今に至るまで精力的に活動しています。
そんな背景を思い浮かべながら本作を聴くと、主役と助演の二人にを支えるドラムとベースに耳が移っていきます。決して目立つことはないが、しっかりと主役と助演を支えるクレイトンとハミルトンの演奏に感心しながら、ミルト・ジャクソンとモンティ・アレキサンダーの快適な演奏を楽しみました。
 

15度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年10月19日(土)07時45分7秒
  その前に、この作品が録音された1977年6月1日(水)の新聞を見てみましょう。
先ずはトップ記事。
日経「対ソ 輸出信用供与を再開、政府・輸銀方針、まずプラント二件、来週にもソ連と交渉」
読売「社・共とだけ党首会談、福田首相 領土後退し失敗、成田氏強調、日ソ交渉、評価対立」
朝日「七月試運転は困難に、東海村の核燃料再処理工場、凍結求め米親書、日本側 粘り強く交渉へ」

朝日の見出しにもソ連の影があり、国際政治の動きにはソ連が鍵を握っている時期なのでした。



ではこの6月1日の朝日新聞から少しばかり紹介します。
・3面に「会場使用断る、日教組大会で福島県」との記事があります。この時期には日教組への加入率は50%前半でしたが、2016年秋時点の組織率は23.6%であり、報道で日教組の名前に接することは少なくなりました。しかしながら今でも日教組の集会には、右翼の街宣車が多数集まるようです。
・11面下にスイス・クレジット銀行東京支店の広告があり、「スイス・クレジット銀行東京支店は本日、6月1日から営業を開始します」とあります。この銀行東京支店は、この翌年にクレジット・スイス銀行東京支店、1996年にクレディ・スイス・ファースト・ボストン銀行東京支店、2005年にはクレディ・スイス銀行東京支店と、名称変更を繰り返すことになりました。
・TV欄 民放 18:30からのニュース番組名は、日テレが「ジャストニュース」、TBSが「ニューススコープ」、フジが「ニュース6:30」、そしてテレ朝が「ニュースレーダー」となっています。ちなみに東京12チャンネルはアニメを放送しています。
番組名としては「ジャストニュース」は1984年まで、「ニューススコープ」は1990年まで、「ニュース6:30」は1978年まで、そして「ニュースレーダー」は1987年まで使われていました。
 

16度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年10月18日(金)07時24分49秒
  「今日の1枚からつまみ食い」、今回のテーマは「マイク ジャケ」です。


「マイク ジャケ」作品の33枚目は、Milt Jackson and Monty Alexander の Soul Fusion、1977年6月1日の録音です。
ヴィブラフォンの上に2本のマイクというのは、基本のセッティングです。そしてそのマイクは、ノイマンU47かU87でしょう。
さてミルト・ジャクソンがモンティ・アレキサンダーと組んだ本作を「今日の1枚」で取り上げたのは、2015年11月7日のことでした。「グルーブ感とブルース・フィーリングが魅力」との感想を述べた本作を、今日はつまみ食いします。
 

16度

 投稿者:マハール  投稿日:2019年10月17日(木)07時08分57秒
  さてメリルさんの「マイク ジャケ」作品。
ピアノ、ソプラノサックス、そして時にバイオリンの二人から三人をバックにしての歌唱ですから、それはメリルさんにとっても、そしてジャズ・ヴォーカル好きにとっても、いつもとは違う舞台です。
この作品の普段と違うものに最初は戸惑いますが、それに慣れれば、メリルさんの歌に魅了されていきます。彼女のしっかりと歌う歌唱が、まるで語りのように伝わってくる不思議さに、聴き入っていく作品です。
Owlは1990年代に入ると消えていきますが、これは新興レーベルの運命とも言えます。私としては、今回のつまみ食いから、そして新譜屋さんでの当時の様子を思い浮かべて、まだまだ活動して欲しかったレーベルだなと思いました。
 

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