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 投稿者:マハール  投稿日:2020年12月27日(日)07時46分45秒
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  19610523-23(26,27)
The Damned Don't Cry (Calvin Massey)
(7分35秒)



【この曲、この演奏】
コルトレーンの親友カルヴィン・マッセイ作の曲で、さらにマッセイがアレンジを行った演奏です。またロマラス・フランチェスキーニが、指揮を行っています。
資料07によると、本セッション以外のコルトレーンのこの曲の演奏記録としては、この月にスタジオで行われたデモ演奏でこの曲が取り上げられています。その内容なのですが、「この月」らしいのですが、ひょっとしたら前年1960年の夏か秋かもしれないとのことです。どのスタジオかは不明で、場所も多分NYだがはっきりしないとのことです。コルトレーンのオーケストラでの演奏ですが、参加メンバーはエリック・ドルフィー、カルヴィン・マッセイ(tp)、ジョー・ファレル(fl)、オリヴァー・ネルソン(cl)以外のメンバーは不明とのことです。資料07の著者はこのデモ演奏のテープを聴いており、それはカルヴィン・マッセイのご子息の強力によるものとのことです。
また資料07によれば、本セッションは3つのテイクを合成したものとのことです。7回目のテイク(ここでは枝番-23 としている)を頭から6分まで使い、残りを二つのテイク(ここでは枝番-26,-27 としている)を貼り合わせたそうです。
さて演奏ですが、「マッセイ独特のウォームでエキゾティックなナンバー」(資料09)を、重厚なブラスを多用して効果的にしています。また硬軟のメリハリが効いています。コルトレーンはテーマでソプラノを吹き、ソロではテナーとソプラノで演奏しています。テイク7自体は途中で演奏が中断しているので、コルトレーンのソプラノでのソロが終わった時点までテイク7を使い、ベースからクロージングへ向かう場面で他の2つのテイクをつなぎ合わせたようです。
資料03ではこの曲について、「たどたどしい粗雑な出来であり、コルトレーンが1957年からリーダー作をレコーディングし始めて以来、初めての失敗作だ」と、手厳しく書いております。結局はコルトレーンが望む様子にならなかった演奏なのでしょうけれど、そこには常に挑戦者としての姿を私は感じます。映画に使えそうな演奏であり、資料03の著者の音楽知識に遥かに及ばない私には、楽しめるものです。しかしインパルス!としてはこの曲は世に出さず、売却先のMCAが世に出したわけであり、資料03の著者の見解が一般的なのでしょう。
この演奏はIZ-9361-2(Trane's Modes)として、1979年に世に出ました。



【エピソード、クリード・テイラー その1】
インパルス!のプロデューサーと言えばボブ・シールだが、インパルス!の立ち上げと特徴づけを果たしたのはクリード・テイラー であった。ジャズ界に名プロデューサー、或いは有名プロデューサーは何人もいるが、彼がその一人であることは間違いない。資料13から引用しながら、クリード・テイラー とインパルス!について書いていく。
クリード・テイラー は1929年にヴァージニア州に生まれ、大学時代は音楽に進むか、それとも医学に進むか迷っていた。彼はJATPのSP盤を残らず聴き込んだという。「延々と続くあのシリーズ盤さ。テナー・バトルにドラム・バトル。バトル、バトルできりがない。ジャズは好きだけど、こんな音楽はうんざりだと思っていた。それで、この世界に入って自分でやってみようと決めたんだ。細かいところをしっかり決めておいて、自由に吹くところもあるけれど、だらだらとしたソロにはしない」
大学時代、彼はビバップ時代のNYに足しげく通っていた。ソロ・プレーヤー同士が音楽を作るような新しいジャズのスタイルに、目をむけていたのだ。
卒業して入隊、朝鮮戦争で軍務を果たした後、彼はNYに戻り、音楽業界に何とか潜りこもうとあれこれ手を尽くした。1954年、半ば志破れ、心理学の方にでも進路を変えようと思っていたところ、同じようにあがいていたベツレヘム・レコードから単発の仕事が入った。
この小さなインディーズ・レーベルは前年からシングル・ヒットを飛ばそうと悪戦苦闘していたが、ままならなかった。創業者のガス・ワイルディは、これまでにないものをやろうと考えており、テオラーにはそのアイディアがあったのだ。
当時、くつろいだ感じのウエスト・コースト・ジャズが新たに登場し、「クール」の名の下に広く人気を博していた。流行にめざとい新米プロデューサーは、クールを好むオーディエンスを念頭に置いて、ハスキー・ボイスの無名歌手に声をかけ、彼女にじんとくるスロー・バラードを歌わせた。できあがったのが「バードランドの子守唄/クリス・コナー」である。このアルバムは意外にも2万枚の売上を記録したが、これは当時の業界の基準で言えば好調なヒットである。ベツレヘム・レコードはこれで救われ、さらにコナーとテイラーにも道が拓けた。
テイラーはこのままベツレヘム・レコードに残り、コナーのほかにもさまざまなアーティストと付き合った。フルートのハービー・マン、ベースのオスカー・ペティフォードとチャールズ・ミンガス、そしてJ.J.ジョンソンとカイ・ウィンディングの双頭クィンテットなどだ。テイラーにとっては実り豊かな時期であった。またルディ・ヴァン・ゲルダーと初めて一緒にやったのもこの頃だ。
しかし、テイラーは小さな成功に甘んじてはいなかった。1955年、もっといい予算をもらって一段上の仕事をしたいと思っていたところ、業界紙にある記事が出た。
「ビルボード誌は毎週欠かさず読んでいたよ。ある日、そこにABCパラマウントの新レーベル設立の話が載ってたんだ。そこでABCパラマウントの社長サム・クラークに一筆したため、面接してもらうことになったんだ。こんなことができます、と説明すると、あっさり採用になったのさ」
(資料13より、書かれている年が正確なのかと思う箇所も、そのまま引用した)
 
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