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訃報・田渕守君ご逝去

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 2月11日(水)21時27分15秒
  当会OBである田渕守君が急逝されたとのことです。田渕君は、1967年文学部法律政治学専攻に入学したものの、筑波移転反対闘争の敗北により大学を中退、その後は小田急電鉄に勤務し、私鉄労組の活動をつづけ、退職後は社労士、行政書士として鯰亭事務所を開設して活躍されていました。11月には、先輩の根井康之氏の葬儀のため、宮崎市まで行ったばかりでした。
田渕君は、以前、大腸がんを発症し治療を続けていましたが、それが食道に転移し急速に病状が悪化、2月9日に入院したものの11日に亡くなられたそうです。
ついては、次の通り、葬儀が行われるとのことですのでお知らせします。
通 夜  2月13日18時-19時
告別式  2月14日10時-11時
会 場  株式会社日華 多磨葬祭場・日華斎場
住 所  〒183-0002 東京都府中市多磨町2丁目1-1
電 話  042-361-2174
謹んでご冥福をお祈りいたします。
 
 

『脱原発』のお知らせ

 投稿者:内山 健  投稿日:2015年 2月 9日(月)20時27分33秒
  内山健『脱原発―原発は原爆と同じくらい恐ろしい―』(あずさ書店から税込み756円、好評発売中)。全国各書店にて申し込み、送料無料。原発問題を学際的に分かりやすく分析。原爆の開発から原発事故まで歴史的理論的に説明。豊富な62点の写真と4点の図表を収載。高品質な用紙を用いながらも廉価。原発問題の必読書。  

「名誉教授一覧」を追加

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 2月 5日(木)01時42分11秒
  しばしば、東京教育大学の名誉教授にはどのような人がいるのかとの質問を受けることがあります。
そのような疑問に答えるため、「東京教育大学名誉教授一覧(1997)」というページを追加しました。ただし、あくまでも1997年の時点での名誉教授であり、その時点ですでに亡くなられている方は掲載しておらず、また、その後亡くなられた方については、そのまま掲載しています。

http://members.jcom.home.ne.jp/lionsboy/emeritus.htm

 

湯島聖堂

 投稿者:水沢  投稿日:2015年 1月27日(火)17時15分20秒
  今日、ちょっと以前の新聞を整理した。21日朝日の20~21面見開きに、江戸小説の企画広告があり、江戸の古地図が複写されていた。
先日から、気になっていたことがあった。どうでも良いことなのだが、間違いは気色悪いのだ。ウイキペディア「東京教育大学」の「沿革」に、師範学校は1872年に「昌平黌(現湯島聖堂)移転跡地に」開設されたとなっている。この「現湯島聖堂」が気になっていた。現湯島聖堂は狭いものだ。師範学校の東側には、女子師範もあった。当時の姿としては、湯島聖堂だって残されていたはずだ。そんな狭い所に3者が共存できるはずはない。だから、面積的には、今の医科歯科大キャンパスが主体だったはず。そういう疑問だった。
当時の地図があれば完璧だが、江戸の古地図でも、傍証になる。そう思って、その古地図を見た。文字は印刷の太りで鮮明でないが、「セイダウ」と読める森の中の建物がある。その左には、堀をめぐらしたような区画がある。この双方の土地が、明治以降に、昌平黌、高等師範学校・女子高等師範学校、さらには医科歯科大キャンパスに変じたに違いない。その西側に、狭くされた現湯島聖堂が残る。もちろん、聖橋も、あの広い道路もなかった。
「セイダウ」の西に、通りを挟んで、「定火消」と書かれた土地がある。何に使われていたのか? 昌平黌発足の際にそれに取り込まれたのか? それとも民地として残り、後年に順天堂の敷地になったのか。
もっと鮮明で、縮小されていない原図であれば、現代の地図との比較が、もっとはっきりわかるでしょう。明治時代の地図があれば、もっと完璧。細かい話ですが・・・。
 

訃報・根井康之氏ご逝去

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月17日(月)14時13分13秒
編集済
  1965年入学の会員根井康之氏(文学部哲学専攻、1946年7月生まれ)が他界(享年68)されました。氏は、2014年11月12日午後1時05分、宮崎県宮崎市の潤和会記念病院にて、逝去されました。死因はS字結腸癌でした。
通夜・葬儀は、11月13日・14日に地元である宮崎市佐土原の内藤会館にて執り行われました。当会からは、1967年入学の田渕君が参列しました。
なお、根井氏の著作については、以下のサイトをご覧ください。

http://www.geocities.jp/neieiko/

 

ウイキ

 投稿者:水沢  投稿日:2014年11月13日(木)18時41分40秒
  ウイキで確かめたら、「磯野富士子」教授は、項目が立っていました。しかし、「磯野誠一」教授は、項目がありません。法政専攻だった方よ、誰か立項しなさい。  

けんらんゴウカ

 投稿者:水沢  投稿日:2014年11月13日(木)18時35分59秒
  ちょっと忙しかったので、しばらくぶりに、このページに来ました。けんらんゴウカなる穂積家の家系に連なる話を載せておきましょう。
穂積先生の叔父さん(叔父さんが2人いて、その上の方)の次女が結婚した相手は、磯野誠一先生です。これは、週刊読売の1981年9月6日号に載っている渋沢栄一の系図によります(その系図を、あずさ書店の本が転載しているのです)。
その磯野富士子さんは、お茶大の先生だったと聞いたような気がするけど、これは不確かな記憶です。
 

穂積さんのこと(続)

 投稿者:横浜通信部M生  投稿日:2014年11月11日(火)12時45分59秒
  新聞会OBにとっても懐かしい存在であった穂積重行先生のご逝去にふれた先日の投稿で、祖父の陳重が「初代の帝大法学部長」と記したのは間違い。「初代」をカットします。で、ついでにその穂積陳重とはどんな人物だったのかと調べてみると(今頃!)、ぼくらが接した穂積さんの磊落な人柄のルーツ?が見つかりました。
出身地である宇和島(愛媛)に「穂積橋」という橋があって、以下はその由来の記述。
……(前略)先生は、故郷、宇和島町と八幡村の合併や、市制施行に尽力され、出京の郷土の青年に勉学を奨励、幾多の人材を撫育されました。この功績を記念すべく、市が穂積家にひたすら銅像の建立を申し出ましたが、「老生は銅像にて仰がるるより、萬人の渡らるる橋になりたし」との、生前のご意志から固く辞退されました。それ故、改築中の本開橋を穂積橋として御尊名を刻みたいと願い出たところ、それならば故人も本懐であろうと受諾されて、穂積橋が誕生したものであります。近年、記念碑の風化が甚しいので市民有志が新しく碑を刻み、眩しい遺徳を後世に伝えるものであります。
――う~ん、いい話ですね。ところで小生、昨日10日夕の通夜の末席を汚したのですが、式は神道で執り行われ、通夜を遷霊祭、また告別式を葬場祭というのですね。神道式の婚儀はともかく、ご葬儀は初めての経験。で、カクカクたるご親族や大東文化大、またご子息の勤務先などの弔花献呈を記した名札と並んで東京教育大学西洋史教室卒業生、そして東京教育大学生活協同組合同窓会の名がありました。人数? 卒後もうほぼ半世紀経っているので皆一様にシラガ頭で、誰が誰やら……さっぱりわかりませんでした。
 

穂積さんのこと

 投稿者:横浜通信部M生  投稿日:2014年11月 6日(木)00時59分10秒
  管理人さんの素早い投稿に驚きました。
その穂積さんの父は穂積八束の次兄である陳重(初代の帝大法学部長)の息子である重遠(やはり帝大法学部教授)。つまり陳重-重遠-重行と3代続く学者の家系ですが、母が児玉源太郎の娘のナカ、また祖母歌子(陳重の妻)が渋沢栄一の長女と聞くと、まさに明治以降のケンランたる名門の出。で実はたまたま先月、「佐倉まつり」を観に佐倉を訪ねた折、佐倉城址近くの武家屋敷街を歩いたのですが、「児玉源太郎邸跡」という掲示を見て驚きました。児玉は日露戦争時は乃木将軍の参謀で、日本史の教科書に出て来る乃木&ステッセルの記念写真にも写っているのですが、佐倉連隊長だったことを初めて知りました。偶然ですが、その日その場でチェーン・スモーカーであった穂積先生の姿を思い浮かべました。重行クンはきっと祖父母を訪ね、佐倉城址公園を駆け回ったことでしょう。
 

Re:穂積重行先生ご逝去

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月 5日(水)23時47分29秒
  穂積先生と言えば、非常に温厚でつねに学生の立場に寄り添って物事を考えてくださる方だった。愛煙家でいつもタバコを離さず、講演などでも「悪いけどタバコを吸いながら話をさせていただきます」というほどだった。
私が入学した年には、大塚史学会の新入生歓迎会の際、記念講演を行われた。題名は今も覚えていますが、「ディスレイリとさくら花」というものだった。実際に話もうまくて、おもわず引き込まれしまうようなものだった。
もっとも、私自身は専攻違いということもあり、講義はを受けたことはなく、著書は「産業革命」を1冊持っているだけです。
しかし、立派な先生であったという強い印象が残っています。謹んでご冥福をお祈りする次第です。
 

穂積重行先生ご逝去

 投稿者:横浜通信部M生  投稿日:2014年11月 5日(水)22時44分1秒
  訃報 穂積重行先生ご逝去のお知らせ
旧東京教育大学教授(西洋史教室)で、後に大東文化大学の教授・学長となった穂積重行先生の訃報が届きました。穂積さんは11月3日(月)夜19時過ぎにご逝去、享年92歳(1921年生まれ)とのことです。
なぜかまだ新聞&通信社による訃報は流れていませんが、ご葬儀は以下の通りです。
 通夜:10日(月)18時~19時 告別式11日(火)11時~12時
 斎場 碑文谷会館(ひもんやかいかん) 03-5722-9111
     〒152-0003 東京都目黒区碑文谷4-21-10
     東急東横線「都立大学前駅」下車、徒歩8分(環7沿い)
 なお喪主は穂積玲子夫人?(未確認)
 以上、謹んでお知らせいたします。

 

「山中湖観秋会」無事終了

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 9月28日(日)14時54分7秒
  新聞会の1950年代後半期世代によって計画・立案された、9月26日-28日にかけての「山中湖観秋会」は、1泊目17人、2泊目9人の参加を得て、無事終了いたしました。
この会合のなかで、来年7月あたりに全体会をやろうという話が出てきたので、来年総会が実施される可能性が強まりました。
 

友人が楚人冠評伝出版

 投稿者:横浜港北入江  投稿日:2014年 8月13日(水)22時25分10秒
  62年国文科入学の入江と申します。(国文科というよりサークル学科ー新聞会の隣のハトの会・学生運動学科という方がいいかも)管理人氏にお勧めいただいて出版の情報を書きます。
62年日本史入学の小林康達(やすみち)さんが、『楚人冠 百年先を見据えた名記者杉村広太郎伝』(2012年現代書館)を出されました。朝日新聞社の記者・幹部社員楚人冠(1872年-1945年)のはじめての評伝です。仏教革新運動に関わり、社会主義にも接近し、身につけた英語力によって仕事をした苦労人の評伝です。毎朝NHK「花子とアン」見ていますが、本書と重ねて、明治の青年の自己形成ーひいては私(たち)の戦後における自己形成について思いを巡らしています。そういえば、同じ62年日本史入学の薄井氏らが『氷川下セツルメント史ー半世紀にわたる活動の記録』(氷川下セツルメント史編纂委員会、発行所(株)エイデル研究所)を出版されたとのこと。横浜市図書館に入っていないのでこちらはまだ読んでいませんが、いずれ読んでみたいと思っています。
 

「山中湖観秋会」の計画

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 7月25日(金)01時57分51秒
  主として1950年代後半期に新聞会で活動していた「OB有志の会」によって、「山中湖観秋会」が計画されています。日程は9月26日から28日まで、2泊3日ですが、前半のみ参加、後半のみ参加も可能。応募の締め切りは8月20日。
別に学年による年齢制限があるわけではないので、案内の届いていない参加希望者があったら管理人まで連絡してください。
 

茗渓会館レストラン部営業停止

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 7月21日(月)18時28分2秒
  卒業生の同窓会等によく利用されている茗渓会館のレストラン部ですが、最近業績不振により営業を停止し、残務整理に入っているとのことです。後継業者を募集したものの応募がなく、営業再開の目途はたっていないとのことです。本来なら茗渓会のサイトで告知すべき問題ですが、同サイトには何の記述もありません。茗渓会館での同窓会などを計画されている方はご注意ください。なお、茗渓会本部事務所が同会館の最上階にあることに変わりはありません。  

山内隆夫君、練馬区副区長に

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 7月 4日(金)03時47分50秒
  練馬区の広報によると「平成26年6月20日に、元東京都福祉保健局長/山内隆夫(やまうち たかお 66歳)が副区長に就任しました。任期は平成30年6月19日までの4年間です。副区長は、琴尾隆明(ことお たかあき 61歳)との2人体制となります」ということです。山内君は1967年文学部史学科東洋史学専攻に入学された方です。以上お知らせまで。  

「もうひとつ研」第4回研究集会

 投稿者:矢下育子  投稿日:2014年 6月14日(土)20時22分35秒
  1965年日本史学文学部科入学の矢下育子と申します。自由社・育鵬社版歴史教科書の記述と歴史観を批判した亡夫矢下徳治の遺した仕事を引き継ぎ、教育大OBを中心に、一昨年『もうひとつの指導書』を刊行しました。その後は「もうひとつ研」を結成し、新しい歴史観を模索する活動を続けています。
今回「もうひとつ研」第4回研究集会をつぎのように開催しますので、歴史教科書問題にとどまらず、竹富、沖縄、領土、教育等々の現在の状況に、危機感、怒り、嘆き、疑問などの興味と関心をお持ちの多くの皆さんの参加を呼びかけます。今まであまり触れられていない領域の貴重な報告をうけての研究会になると思います。

         「もうひとつ研」第4回研究集会
報 告: =日本文化史を貫く六つの良きもの= 勤王的自大主義を掘り崩すために
報告者:  前 田 浩 志 氏 (1965年文学部社会学入学)
日 時:2014年7月13日(日)午後1時30分~午後5時
会 場:神奈川地区センター会議室 045-453-7350(JR東神奈川駅、京急仲木戸駅より徒歩6分)

連絡先: 090-7426-6287(矢下)
?
 

Re:革命的警戒心

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月 9日(金)19時36分0秒
編集済
  北川氏の件ですが、残念ながら同氏はすでに亡くなられています。北川俊の名で、全学新委員長を務められていました。
本名は竹内正年さんで、1959年に経済学専攻に入学、卒業後は弘文堂やTBSブリタニカを経て、最後はキネマ旬報社の社長をされていました。
なお、亡くなられたのは1998年で、翌年、一周忌を記念して当時の人たちの会合が持たれました。
一周忌の会合については、「新聞会OB会ニュース」に記述があります。
http://members.jcom.home.ne.jp/lionsboy/news.htm#c
私自身が最後に会ったのは、1995年のOB会総会の時で、当時キネマ旬報社長であった竹内さんに、「ベスト・オブ・キネマ旬報の上下巻、両方買いましたよ」と声をかけると、「あんな高いもの、良く買ってくれたな」と言っていました。私にとってはそれが竹内さんとの最後の会話となりました。もちろんその時はお元気で、わずか3年後に亡くなることになるとは思いもよりませんでした。
 

革命的警戒心

 投稿者:憲(立命)  投稿日:2014年 5月 6日(火)18時19分53秒
  ということで、当時ペンネームを使うのが流行りました。同名、北川敏さんお元気ですか。
東京駅入場券で上洛したあなたを、初対面なのに呼び出されて京都駅入場券で受けだした憲です。1961か62年のことです。

それより、「教育大OBを名乗る現役教師がいなくなる」というのは、良くも悪くも感慨深いものがありますね。どんな田舎へ行っても。君臨してましたからね。
 

Re: これも

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月 6日(火)01時05分13秒
編集済
  立命館学園新聞は、昔、教育大学新聞とは友好関係にあり、新聞会員個人同士で親しくしていた人もいたりしたので、非常になつかしく感じられます。情報ありがとうございます。  

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