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中退? 除籍?

 投稿者:横浜通信部M生  投稿日:2015年 3月11日(水)03時13分21秒
  Sさんが滞納学費?を払ったかどうかぼくは知りません。で、厳密に言うとSさんは新聞会OBでありながら「教育大OBでない」かも。実は同じようなケースは五木寛之の場合も話題になりました。五木さんは「早稲田の露文科中退」ということで露文科の名を高からしめたのですが、ウイキペディアには「1957年に学費未納で早稲田大学を抹籍された(後年、作家として成功後に未納学費を納め、抹籍から中途退学扱いとなる)」とあるように、作家として高名になってからも形式上は早稲田とは無縁(除籍)の存在だったのですが、むしろ大学側が望むかたちで往時の未納学費を納めメデタく「早稲田中退」となったと聞いています。  
 

Re:津田さんのこと(続)

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 3月10日(火)16時36分29秒
  「残るはたしか8年がかりで卒業したSさん」というのは、満期の8年間在籍したものの、修得単位不足で、授業料滞納のまま、除籍になったのではないですか?  

津田さんのこと(続)

 投稿者:横浜通信部M生  投稿日:2015年 3月10日(火)01時53分56秒
  ところで実はぼくは学生時代、一度だけ津田さんに会ったことがあります。1960年代後半の某月某夜、新聞会OBのたまり場であった池袋の大衆酒場(トリス・バー)を覗いたところ、研究会の流れだったのか先輩諸氏や津田さん(その夜、紹介されました)他のメンバー数人がカンカンガクガクの議論をしていて、気がつけば終電も出たあと。そのままタクシーに分乗して、社会人となっていた先輩Tさんが借りていた「ひばりが丘団地」(東久留米、いまの西東京市)の一室へとなだれこんだのですね。一升瓶やら何やら、ありったけの酒を飲み延々と続いた激論の果てに雑魚寝。翌朝、遅い朝食で腹を満たし散会したことを覚えています。炊き立てのご飯と納豆だけの朝食。うまかった~。納豆に玉子とキュウリのみじん切りをたっぷり入れ増量したを覚えています。そのTさんもMさんも、もう10年以上も前に相次いで病死して、残るはたしか8年がかりで卒業したSさん。懐かしい思い出です。えっ、その後? あいにくぼくはサヨクになりきれず(笑)、卒業後しばらくしてからMさんに誘われ別の某研究会に参加しました。  

津田さんのこと

 投稿者:横浜通信部M生  投稿日:2015年 3月 6日(金)01時26分40秒
  先月末、管理人さんが触れていた津田道夫さんの訃報。本名は浅見浩さんと言い、氏が主宰する現状分析研究会のメンバーだった新聞会の先輩諸氏は、年齢的にもそれほど大差がない兄貴分の津田さんを「浅見さん、浅見さん」と親しげに呼んでいた。ぼくは氏と同じ西洋史専攻の後輩。それを知る友人から、同じ年の6月に亡くなった浅見夫人の追悼文を載せた『人権と教育』のコピーが送られて来ていたのですね。(同誌2014年7月20日、479号)改めて読み直すと、和子夫人あっての津田道夫。「現状分析研究会」やらその後の「活動家集団思想運動」やら、津田さんの評論家としての活動を生活面で支えていた賢婦人の死に直面し、半年を経ずして津田さんも急逝したことになります。男って弱いですよね。  

新聞会OBG総会開催計画

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 3月 4日(水)01時59分14秒
  昨年山中湖で開催された新聞会OB有志の会の際、今年は全員に呼びかけた総会をやろうという話になり、現在、その計画が事務局を中心に進行中です。
予定としては、7月7,8,9日あたり、東京で開催ということになっています。
なかには、現在連絡が取れなくなっているOB、OGもいます。心当りのある方は、事務局、当サイト管理人、あるいはメーリングリスト(メンバーでなくとも一時的な投稿は可能です)に連絡先をお知らせくださるようお願いします。
 

津田道夫氏のご逝去

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 2月27日(金)04時36分35秒
  今更ながら、教育大創設時の最初の入学者(西洋史学専攻)である津田道夫氏が昨年10月に亡くなっていたことに、同氏のブログで気がついた。
私が大学に入学した頃は、すでに「国家と革命の理論」(1961)で構改派の国家理論の先駆者としてもてはやされていた存在だった。
新聞会にも、すでに亡くなっているが、同氏の主宰する「現状分析研究会」のメンバーだった人もいて、ある程度は新聞会の論調にも影響を与えていた。
1967年、本学で学生が、ロシア革命50周年の記念講演を依頼したことがあったが、嬉々として熱弁を奮っていたのが印象的だった。
訃報が相次ぎ、気が滅入るばかりだが、ご冥福を祈りたい。合掌。

http://tomonikk.exblog.jp/

 

訃報・田渕守君ご逝去

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 2月11日(水)21時27分15秒
  当会OBである田渕守君が急逝されたとのことです。田渕君は、1967年文学部法律政治学専攻に入学したものの、筑波移転反対闘争の敗北により大学を中退、その後は小田急電鉄に勤務し、私鉄労組の活動をつづけ、退職後は社労士、行政書士として鯰亭事務所を開設して活躍されていました。11月には、先輩の根井康之氏の葬儀のため、宮崎市まで行ったばかりでした。
田渕君は、以前、大腸がんを発症し治療を続けていましたが、それが食道に転移し急速に病状が悪化、2月9日に入院したものの11日に亡くなられたそうです。
ついては、次の通り、葬儀が行われるとのことですのでお知らせします。
通 夜  2月13日18時-19時
告別式  2月14日10時-11時
会 場  株式会社日華 多磨葬祭場・日華斎場
住 所  〒183-0002 東京都府中市多磨町2丁目1-1
電 話  042-361-2174
謹んでご冥福をお祈りいたします。
 

『脱原発』のお知らせ

 投稿者:内山 健  投稿日:2015年 2月 9日(月)20時27分33秒
  内山健『脱原発―原発は原爆と同じくらい恐ろしい―』(あずさ書店から税込み756円、好評発売中)。全国各書店にて申し込み、送料無料。原発問題を学際的に分かりやすく分析。原爆の開発から原発事故まで歴史的理論的に説明。豊富な62点の写真と4点の図表を収載。高品質な用紙を用いながらも廉価。原発問題の必読書。  

「名誉教授一覧」を追加

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 2月 5日(木)01時42分11秒
  しばしば、東京教育大学の名誉教授にはどのような人がいるのかとの質問を受けることがあります。
そのような疑問に答えるため、「東京教育大学名誉教授一覧(1997)」というページを追加しました。ただし、あくまでも1997年の時点での名誉教授であり、その時点ですでに亡くなられている方は掲載しておらず、また、その後亡くなられた方については、そのまま掲載しています。

http://members.jcom.home.ne.jp/lionsboy/emeritus.htm

 

湯島聖堂

 投稿者:水沢  投稿日:2015年 1月27日(火)17時15分20秒
  今日、ちょっと以前の新聞を整理した。21日朝日の20~21面見開きに、江戸小説の企画広告があり、江戸の古地図が複写されていた。
先日から、気になっていたことがあった。どうでも良いことなのだが、間違いは気色悪いのだ。ウイキペディア「東京教育大学」の「沿革」に、師範学校は1872年に「昌平黌(現湯島聖堂)移転跡地に」開設されたとなっている。この「現湯島聖堂」が気になっていた。現湯島聖堂は狭いものだ。師範学校の東側には、女子師範もあった。当時の姿としては、湯島聖堂だって残されていたはずだ。そんな狭い所に3者が共存できるはずはない。だから、面積的には、今の医科歯科大キャンパスが主体だったはず。そういう疑問だった。
当時の地図があれば完璧だが、江戸の古地図でも、傍証になる。そう思って、その古地図を見た。文字は印刷の太りで鮮明でないが、「セイダウ」と読める森の中の建物がある。その左には、堀をめぐらしたような区画がある。この双方の土地が、明治以降に、昌平黌、高等師範学校・女子高等師範学校、さらには医科歯科大キャンパスに変じたに違いない。その西側に、狭くされた現湯島聖堂が残る。もちろん、聖橋も、あの広い道路もなかった。
「セイダウ」の西に、通りを挟んで、「定火消」と書かれた土地がある。何に使われていたのか? 昌平黌発足の際にそれに取り込まれたのか? それとも民地として残り、後年に順天堂の敷地になったのか。
もっと鮮明で、縮小されていない原図であれば、現代の地図との比較が、もっとはっきりわかるでしょう。明治時代の地図があれば、もっと完璧。細かい話ですが・・・。
 

訃報・根井康之氏ご逝去

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月17日(月)14時13分13秒
編集済
  1965年入学の会員根井康之氏(文学部哲学専攻、1946年7月生まれ)が他界(享年68)されました。氏は、2014年11月12日午後1時05分、宮崎県宮崎市の潤和会記念病院にて、逝去されました。死因はS字結腸癌でした。
通夜・葬儀は、11月13日・14日に地元である宮崎市佐土原の内藤会館にて執り行われました。当会からは、1967年入学の田渕君が参列しました。
なお、根井氏の著作については、以下のサイトをご覧ください。

http://www.geocities.jp/neieiko/

 

ウイキ

 投稿者:水沢  投稿日:2014年11月13日(木)18時41分40秒
  ウイキで確かめたら、「磯野富士子」教授は、項目が立っていました。しかし、「磯野誠一」教授は、項目がありません。法政専攻だった方よ、誰か立項しなさい。  

けんらんゴウカ

 投稿者:水沢  投稿日:2014年11月13日(木)18時35分59秒
  ちょっと忙しかったので、しばらくぶりに、このページに来ました。けんらんゴウカなる穂積家の家系に連なる話を載せておきましょう。
穂積先生の叔父さん(叔父さんが2人いて、その上の方)の次女が結婚した相手は、磯野誠一先生です。これは、週刊読売の1981年9月6日号に載っている渋沢栄一の系図によります(その系図を、あずさ書店の本が転載しているのです)。
その磯野富士子さんは、お茶大の先生だったと聞いたような気がするけど、これは不確かな記憶です。
 

穂積さんのこと(続)

 投稿者:横浜通信部M生  投稿日:2014年11月11日(火)12時45分59秒
  新聞会OBにとっても懐かしい存在であった穂積重行先生のご逝去にふれた先日の投稿で、祖父の陳重が「初代の帝大法学部長」と記したのは間違い。「初代」をカットします。で、ついでにその穂積陳重とはどんな人物だったのかと調べてみると(今頃!)、ぼくらが接した穂積さんの磊落な人柄のルーツ?が見つかりました。
出身地である宇和島(愛媛)に「穂積橋」という橋があって、以下はその由来の記述。
……(前略)先生は、故郷、宇和島町と八幡村の合併や、市制施行に尽力され、出京の郷土の青年に勉学を奨励、幾多の人材を撫育されました。この功績を記念すべく、市が穂積家にひたすら銅像の建立を申し出ましたが、「老生は銅像にて仰がるるより、萬人の渡らるる橋になりたし」との、生前のご意志から固く辞退されました。それ故、改築中の本開橋を穂積橋として御尊名を刻みたいと願い出たところ、それならば故人も本懐であろうと受諾されて、穂積橋が誕生したものであります。近年、記念碑の風化が甚しいので市民有志が新しく碑を刻み、眩しい遺徳を後世に伝えるものであります。
――う~ん、いい話ですね。ところで小生、昨日10日夕の通夜の末席を汚したのですが、式は神道で執り行われ、通夜を遷霊祭、また告別式を葬場祭というのですね。神道式の婚儀はともかく、ご葬儀は初めての経験。で、カクカクたるご親族や大東文化大、またご子息の勤務先などの弔花献呈を記した名札と並んで東京教育大学西洋史教室卒業生、そして東京教育大学生活協同組合同窓会の名がありました。人数? 卒後もうほぼ半世紀経っているので皆一様にシラガ頭で、誰が誰やら……さっぱりわかりませんでした。
 

穂積さんのこと

 投稿者:横浜通信部M生  投稿日:2014年11月 6日(木)00時59分10秒
  管理人さんの素早い投稿に驚きました。
その穂積さんの父は穂積八束の次兄である陳重(初代の帝大法学部長)の息子である重遠(やはり帝大法学部教授)。つまり陳重-重遠-重行と3代続く学者の家系ですが、母が児玉源太郎の娘のナカ、また祖母歌子(陳重の妻)が渋沢栄一の長女と聞くと、まさに明治以降のケンランたる名門の出。で実はたまたま先月、「佐倉まつり」を観に佐倉を訪ねた折、佐倉城址近くの武家屋敷街を歩いたのですが、「児玉源太郎邸跡」という掲示を見て驚きました。児玉は日露戦争時は乃木将軍の参謀で、日本史の教科書に出て来る乃木&ステッセルの記念写真にも写っているのですが、佐倉連隊長だったことを初めて知りました。偶然ですが、その日その場でチェーン・スモーカーであった穂積先生の姿を思い浮かべました。重行クンはきっと祖父母を訪ね、佐倉城址公園を駆け回ったことでしょう。
 

Re:穂積重行先生ご逝去

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月 5日(水)23時47分29秒
  穂積先生と言えば、非常に温厚でつねに学生の立場に寄り添って物事を考えてくださる方だった。愛煙家でいつもタバコを離さず、講演などでも「悪いけどタバコを吸いながら話をさせていただきます」というほどだった。
私が入学した年には、大塚史学会の新入生歓迎会の際、記念講演を行われた。題名は今も覚えていますが、「ディスレイリとさくら花」というものだった。実際に話もうまくて、おもわず引き込まれしまうようなものだった。
もっとも、私自身は専攻違いということもあり、講義はを受けたことはなく、著書は「産業革命」を1冊持っているだけです。
しかし、立派な先生であったという強い印象が残っています。謹んでご冥福をお祈りする次第です。
 

穂積重行先生ご逝去

 投稿者:横浜通信部M生  投稿日:2014年11月 5日(水)22時44分1秒
  訃報 穂積重行先生ご逝去のお知らせ
旧東京教育大学教授(西洋史教室)で、後に大東文化大学の教授・学長となった穂積重行先生の訃報が届きました。穂積さんは11月3日(月)夜19時過ぎにご逝去、享年92歳(1921年生まれ)とのことです。
なぜかまだ新聞&通信社による訃報は流れていませんが、ご葬儀は以下の通りです。
 通夜:10日(月)18時~19時 告別式11日(火)11時~12時
 斎場 碑文谷会館(ひもんやかいかん) 03-5722-9111
     〒152-0003 東京都目黒区碑文谷4-21-10
     東急東横線「都立大学前駅」下車、徒歩8分(環7沿い)
 なお喪主は穂積玲子夫人?(未確認)
 以上、謹んでお知らせいたします。

 

「山中湖観秋会」無事終了

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 9月28日(日)14時54分7秒
  新聞会の1950年代後半期世代によって計画・立案された、9月26日-28日にかけての「山中湖観秋会」は、1泊目17人、2泊目9人の参加を得て、無事終了いたしました。
この会合のなかで、来年7月あたりに全体会をやろうという話が出てきたので、来年総会が実施される可能性が強まりました。
 

友人が楚人冠評伝出版

 投稿者:横浜港北入江  投稿日:2014年 8月13日(水)22時25分10秒
  62年国文科入学の入江と申します。(国文科というよりサークル学科ー新聞会の隣のハトの会・学生運動学科という方がいいかも)管理人氏にお勧めいただいて出版の情報を書きます。
62年日本史入学の小林康達(やすみち)さんが、『楚人冠 百年先を見据えた名記者杉村広太郎伝』(2012年現代書館)を出されました。朝日新聞社の記者・幹部社員楚人冠(1872年-1945年)のはじめての評伝です。仏教革新運動に関わり、社会主義にも接近し、身につけた英語力によって仕事をした苦労人の評伝です。毎朝NHK「花子とアン」見ていますが、本書と重ねて、明治の青年の自己形成ーひいては私(たち)の戦後における自己形成について思いを巡らしています。そういえば、同じ62年日本史入学の薄井氏らが『氷川下セツルメント史ー半世紀にわたる活動の記録』(氷川下セツルメント史編纂委員会、発行所(株)エイデル研究所)を出版されたとのこと。横浜市図書館に入っていないのでこちらはまだ読んでいませんが、いずれ読んでみたいと思っています。
 

「山中湖観秋会」の計画

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 7月25日(金)01時57分51秒
  主として1950年代後半期に新聞会で活動していた「OB有志の会」によって、「山中湖観秋会」が計画されています。日程は9月26日から28日まで、2泊3日ですが、前半のみ参加、後半のみ参加も可能。応募の締め切りは8月20日。
別に学年による年齢制限があるわけではないので、案内の届いていない参加希望者があったら管理人まで連絡してください。
 

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